山間の町、夕暮れ。 冷え込んだ空気の中、温泉宿の灯りがぽつりぽつりと点っていた。年季の入った宿「白霧館」の帳場に、一人の青年が姿を現した。

「予約していた笠井です」 「いらっしゃいませ。……ああ、道中お疲れでしょう」

女将は微笑んだ。けれどその目には、どこか哀しみの影が差していた。

夜。露天風呂で笠井は、湯煙の向こうにふと、白い着物を着た女の姿を見た。 肩まである長い黒髪、青白い肌。目が合った……ような気がしたが、女はすぐに背を向け、雪の中に消えた。

「あれ、今の……？」

宿の誰に尋ねても、「そんな人はいません」と言うだけだった。だが、翌朝も、翌夜も、彼は何度もその女とすれ違った。

雪の中、音もなく立ち尽くすように、ただ彼を見つめている。

三日目の夜。彼はようやくその女と、露天風呂の庭で言葉を交わした。

「……君は、ここに住んでるのか？」

女はかすかに笑った。

「あなた、昔ここに来たことがあるでしょう。子どもの頃。……覚えてない？」

彼の胸の奥で、忘れかけた記憶がはじけた。 大雪で遭難しかけた冬。白い世界の中で、確かに誰かに手を引かれ、小さな庵で暖を取った。夢のような時間。 あれは……この宿の裏山だった。

「……君が、あの時の？」

女はうなずき、雪のように儚く微笑んだ。

「人間と交わってはいけないと、言われていたの。でも……あの時、あなただけは……」

風が吹く。冷たいが、どこか温かい。

「帰らないで。このまま、雪に埋もれて」

笠井の足元に、いつのまにか白い霜が広がっていた。息が白く、視界が霞む。

しかし、彼は笑ってこう言った。

「今なら、あの時の続きができる気がするよ」

翌朝、宿の者が裏山で見たのは、 金色に光る霜柱と、並んで残るふたつの足跡だけだった。