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雪月花 第七十六夜 男

「ようこそお越しくださいました」

女将が、出迎える。

男の身なりは、スーツ姿。 仕事帰りのようないで立ち。

不釣り合いな感じもするが、今までにもなかったわけじゃない。


部屋に通され、浴衣に着替え、ひと風呂浴びて、やがて夕餉。

酒猿のフルコースを、淡々と口に運ぶ。

そして。


「……これ、味しませんね」


一言。

裏で露骨にブチ切れ顔の猿を、どうにかなだめる。


深夜。

自販機コーナーでカップ麺を買う男。

ずっと、目に光がない。

声を掛けようにも、どうにも言葉が見つからない。


翌朝。

朝食でもやはり、箸が進まない。


「何かお嫌いなものでもございやしたか……」

猿が訊く。


「いや……」


「ただ……」


「味がね、しないんですよ」


「まったく」


「どうしてでしょうね」


猿は、ただ首を傾げるしかない。

兎が、割って入る。


「何か、食べたいものとかは?」


「さあ……」


男は、遠い目のまま。


食後、男は帰ろうともせず、ただ部屋から外の景色を眺めていた。


「……ふむ」


九尾が、低く呟く。


「あやつ、本心を見せぬのか」


「……妙じゃな」

夜。

ゲームコーナーに、男の影。

クレーンゲームで、あっさりとぬいぐるみを獲る。

そのまま、バー耳枕へ。


男は下戸らしく、シャーリーテンプルを呷る。


「やっぱり味がしない」


男が呟く。


「でも」


「これがつまり……」


「救われたってことなんですかね?」


「……?」


枕兎が首を傾げる。


「救われた?」


「……うーん、イマイチその実感が湧かないのは」


「何なんですかね?」


「ここのサービスが悪いせい?」


間。


「……は?」


「……というか、明らかに足りてないですよね?」


男は、グラスを傾ける。


「何だったかな」


「何か決定的な――」


「あれ……」


「何だっけ?」


「思い出せないや……はは」


沈黙。


「お前……」


九尾が、現れる。


「……そうか」


「自ら、か」


「……え」


そのとき。


男の首元に、一瞬だけ、視線が引っかかった。


何かある。


だが――


それが何なのかまでは、言葉にならない。


「……だとしてもじゃ」


「先ほどから」


「一人で何を言うておる?」


九尾の問いに、嘲笑する様子の男。


「……は?」


「いやだって」


「……おかしくないですか?」


「足りないものがわからないなんて?」


「……」


「……お前、何か勘違いしておらぬか?」


その一言で、何かが、切れた。


「……勘違い?」


「……何を言ってる?」


「俺は――」


「……」


「完璧だった」


顔つきが、変わる。


ゆっくりと。


「……なのに」


「こんな、味のしないものばっかりで」


「……」


言葉が、途切れる。


「ナメてんのか」


みし、と。


音を立てて、形が歪む。


「……御大層に、飾り立ててるくせに」


その姿は、中央に洞の空いた異形。


獣のようでいて、中身がない。


ただ、空洞だけが、ある。


灰色の死の気配が、じわりと、周囲を侵す。


「また全部、嘘なのかよ」


空洞に響く、虚ろな声。


その声を聴き――


鬼が、焔を上げた。


――第七十六夜・了

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