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雪月花 第七十九夜 旅

「今回はまた、派手に壊れてしまいましたニャ~」

湯猫が、半壊の屋根を見上げて言う。

「まぁ、また治るまでの辛抱ですニャ」


この宿はまるで、生きているかのようだ。

忌地の願いを具現化したもの、というが……

壊れてもまた、傷が癒えるように、少しずつ元の姿を取り戻す。

ときに宿泊客の傷まで抱え込み、壊れ――

それを飲み込むかのように、元の姿を、少しずつ。


一体、どうやって……


夜。

寝静まった頃。

ふと、目が覚めて館内を歩く。

客もなく、静かな廊下。

外の冷気が直接入り込むが、それが不思議と心地よい。


ふと、目をやる。

半壊した屋根が、光を帯びて形を取り戻していくのが見えた。


廊下の向こうの壊れた壁から、外が見通せた。

そこは、露天風呂。

湯けむりの向こうに、白い姿。


月明かりの下。

女将は、湯けむりの陰に聳える老木に手を当て、静かに目を閉じている。


これは、あの記憶の中で見た……

この宿が誕生したときの光景、なのか。


女将と老木が、静かに光を帯びる。

壊れた宿が、また少し形を取り戻す。


そうか。

そうやって、この宿は――


外へ。


「あ……」

女将が、気づく。


「……これ」 「ご神木だったんですね」 「あの村の、神社の」


俯き、ぽつりと。

「……はい」


「……」


静寂。


「……つまり」 「ここに、爺ちゃんが」


幹に、手を置く。


「……」


「手伝わせてくれませんか、俺にも」


「え……」


間。


「宿が壊れたの、俺のせいでもあるし」 「それに……」


少しだけ、言葉を探す。


「はる坊が世話になった人と……話してみたい」


二人、ご神木に手を置き、目を閉じる。


爺ちゃんの声が、聞こえた気がした。


そして。


翌朝。


「……え」


日の出とともに目を覚ました枕兎が、思わず目を見張る。

宿の景色が、何か違う。


派手に壊れていた壁や屋根は、まだ完治ではない。

完治ではないが、何かが違う。


元通り、ではない。


何か、宿全体の色味が。


「……ど~しましたニャ?」


「あ、猫」


眠たげな目をこすりながら、湯猫も現れる。

そして、見るや否や、目を輝かせる。


「お~、これはたまげましたニャ」 「お見事なリニューアルですニャ!」


「ふむ……」


遠くで見守りながら、九尾狐が呟く。


「これはなかなか、ただいたずらに帰れとも言えなくなってきたかの……」


「冬と春は隣に触れながら……」 「決して交わることはないと言うに」


夜。


酒猿が、客もないというのに、皆に料理を振舞う。


「リニューアル記念ということでひとつ」


振る舞い酒と称し、淡雪神恵も惜しみなく注がれる。


「……ただやりたいだけでしょ」 「まあまあまあですニャ」


相変わらずの三匹。


女将の笑顔が、心なしか少し、記憶で見た色を取り戻している気がした。


宴が終わり、三匹も狐も、酒に呑まれて寝静まり――


残された、二人。


「そういえば、女将さんは……」


「……はい」


「一人旅って、どう思いますか?」


間。


「……え」


「……何ていうか」


少しだけ、言い淀む。


「この前の客みたいなのを見ると」 「一人で来るって、なんか……」


言葉を選ぶ。


「行き場がない、っていうか」 「逃げ場、みたいに見えて」


自分でも、言い過ぎた気がして。


「……あんまり、いいものに思えなくなってきたっていうか」


静寂。


女将は、すぐには答えなかった。


視線を、少しだけ遠くへ置く。


「……私」


「旅をしたことが、ないんです」


ぽつりと。


「……」


一瞬、言葉を失う。


あの焼け焦げた歌が、過る。


「村にいた頃からずっと……」 「外から来る人を、見るだけで」


「どこから来たのか、とか」 「これからどこへ行くのか、とか」


「そういう話を、聞くだけで」


少しだけ、息をつく。


「……楽しそうだな、って」


指先が、わずかに揺れる。

そのしぐさに、胸の奥が軋む。


「帰る場所がある人も」 「ない人も」


「皆、同じ顔で笑うんです」


「――ここに来てよかった、って」


わずかに、微笑む。


けれどそれは、触れれば消えそうなほど遠い。


「だから」


「一人でも、二人でも」


「寂しいものかどうかは……」


ほんの少しだけ、考える。


「私には、わからない……けれど」


一拍。


「……ただ」


声が、静かに落ちる。


「戻る場所がなくなってしまった人でも」


「それでも、どこかへ向かおうとするなら」


「それはきっと――」


言いかけて、やめる。


言葉には、しない。


「……悪いことでは、ないと思うんです」


静かに。


それだけを、置くように。


その言葉が、夜気の中に溶けていく。


何も言えぬまま。


ただ――


胸の奥に、小さく灯ったものだけが、消えずに残った。


――第七十九夜・了

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