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雪月花 第八十六夜 黒

翌朝。

昨夜の祈りで、宿はさらに輪郭を取り戻しているはずだった。

だが。

枕兎は、やはりその違和感に眉を顰めていた。

何とは言えない。

ほんの僅か。

けれど、確かに何かが違う。

宿の空気が。

景色が。

そこに流れる“何か”が。

背後から、白い影。

「あ、女将さん、おはようございま……」 「おはようございます」

いつものように。

柔らかく、穏やかに微笑む。

だが。

「女将さん!?」

思わず、声が裏返る。

その顔は、一変していた。

目の下から耳元にかけて。

黒っぽく変色した肌。

まるで、焼け爛れた痕のように。

痛々しく。

あまりにも、不自然だった。

「……?」

だが、本人だけが気づいていない。

女将は小さく首を傾げる。

「その顔……」 「……顔?」

枕兎が、震える手で鏡を差し出す。

「……?」

女将は、それを受け取り。

鏡の中の自分を、じっと見つめた。

長い沈黙。

やがて。

「……何か、おかしい……ですか?」 「……え?」

その一言に、場が凍る。

「……おはようございま~……ニャ!?」

遅れて現れた湯猫が、顔を見た瞬間に腰を抜かした。

どたん、と音。

「に、ニャんですかそれ!?」 「……何じゃ、朝から騒々しいの」

九尾が、眠たげに現れる。

「ん?」

一瞥。

そして。

「……お前、どうしたその顔!?」

鋭く、声が変わる。

「……え、どうしたんですか皆さん?」

女将だけが、何事もないように立っている。

その異様さに、誰も言葉を失った。

静まり返る空気。

ちょうど、そのときだった。

少し離れたところで、部屋の襖を開け。

眠い目をこすりながら、気だるく廊下に出る。

「あ……」

その瞬間。

「はる坊!」

女将の声が、真っ直ぐに響いた。

「……え?」

空気が、さらに凍る。

「……はる坊?」

ざわつく一同。

ふと、顔を上げると。

女将と真っすぐに、目が合う。

その黒く爛れた顔。

その目だけが、ひどく幼い。

そして。

思わず、息を呑んだ。

「……はる、坊?」

その様子に、女将の声が、揺れる。

表情が、みるみる不安に曇っていく。

まるで。

目の前にいるものが、本当にそうなのか。

確かめるように。

「……これは」

九尾が、低く呟く。

「お前、まさか……」

次の瞬間。

「引き受けよったのか……その身に!」

声が張り裂けた。

「祟りを……あの餓鬼道の毒を!」

誰も、息をするのを忘れる。

「そこまでして……何故……」

だが。

その声は、女将には届いていない。

その目は、誰も見ていない。

ずっと。

遠い昔だけを見つめている。

「はる坊……」

弱々しい声。

「私、また……はる坊のこと……」 「あのときみたいに……」

ふらふらと。

夢の中を歩くように、近づいてくる。

「どうすればいいの……」

伸ばされた手。

触れる、その寸前で。

力が抜けたように。

そのまま、崩れ落ちた。


女将を客間の布団に寝かせ、皆で見守る。

「雪女ゆえ、進行は遅いが」

九尾。

「それでも毒は、まだ濃くなり続けておるな……」 「……これも、春近き故かもしれんが」

ふと、過る。

「……そうだ、温泉」

思い出したように。

「俺、毒が解けたんですよ」 「露天風呂に落ちたとき」

前のめりになる。

「温泉に入れば、きっと……」

しかし皆、無言で俯いたまま。

沈黙。

「……入れないの」

枕兎が、ぽつりと。

「……え」 「女将さん、お湯に触ると」 「凍らせちゃうから」

その言葉に、再び重い空気。


「はる、坊……」

薄っすらと目を開ける女将。

「女将さん!」

やがて。

女将の目から。

鼻から。

耳から。

黒い何かが、流れ出す。

指先が黒く染まり、ひび割れていく。

「……いかん、もう……」

目を伏せる、九尾。

枕兎が白布で拭き取るそばから、溢れ止まらない黒。

枕も。

布団も。

みるみるうちに染まっていく。

「……やっぱり俺」 「賭けてみます」

おもむろに、女将の身体を抱き上げる。

そのまま、露天風呂へ。


まだ朝霧の立ち込める湯の中に、そっと沈める。

一瞬にして。

湯は黒く染まりながら、メキメキと音を立て凍てついていく。

「……ダメ、か」

しかし。

その腕。

女将を支える、その両腕だけが凍らない。

「……これは」

そのまま、凍てついた湯へ足を乗せる。

溶ける。

水へ戻る。


鬼を、燃やす。

そして、身体ごと。

湯は、凍らない。

湯けむりを黒く染め上げながら、二人を包み込む。

「女将さん!」

姿は、もう見えない。

声も、届かない。

信じて、見守ることしかできない。


毒は、簡単には終わらなかった。

湯を介し、容赦なく鬼の身体へと押し寄せる。

餓鬼道の悪夢が、内側から血を沸騰させる。

身体を膨張させ。

破裂させる。

「……ぐ」

苦悶。

激痛。

地獄。

だが、それでも。

鬼を燃やし続ける。

「はる、坊……」

力ない声。

力ない身体。

だが。

少しだけ、白さを取り戻した気がした。

濃縮と解毒の、せめぎ合い。

「……お爺、ちゃん」 「……どうして」

虚ろな目から、再び黒が溢れる。

その悪夢が、鬼の視界にも流れ込む。

爺ちゃん……

そして。

はる坊……

ごめん、ゆき姉……


あのとき。

ゆき姉を守れていたら。

こんなことには――


鬼の心臓が、脈打った。

あのとき貫かれた、刃の熱が蘇る。


もう、失えない。


鬼の身体から、鮮血と共に毒が逆流を始める。

湯は赤く染まり。

沸騰し。

浄化されていく。

そして。

ゆき姉を、赤がゆっくりと包み込んでいく。


その湯けむりも、やがて。

黒から、赤へ。

「女将さん!」 「乙鬼さん!」

声は、まだ届かない。


しかし、いずれ――

霧が晴れるように。

湯けむりは、静かに元の色へと浄化された。


湯の中で。

支え合うように、ぐったりとする二人。

猿、猫、兎の三匹で、二人を湯から引き上げる。

女将は、白を取り戻していた。

だが――完全ではない。

まだ、どこかに黒が残っている。

そして、鬼も。

毒を分かち引き受けたその身は、なお赤黒い。

二人を客間へ運び。

赤黒く汚れた衣を脱がせ。

新しい浴衣に替え。

そして白く新しい布団へ、そっと寝かせた。

「……」

その様子を、じっと見つめる九尾。

「……この地の理は、もはや」 「とうにわらわの理解を超えておるのやもしれぬ……」


その瞬間。

耳が、ぴくりと動く。

「……む?」 「何奴……じゃ?」


――第八十六夜・了

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