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雪月花 第九十三夜 妖狩り

そして――


一面の、白。


お前のような化け物から、人を救うために。


妻は――

綾乃は――


喉が、凍てつく。


声が、出ない。


それなのに、綾乃は……


――晴らさねばならなかったのに。


――護らねばならなかったのに。


それなのに――


……すまない。


意識が、途切れた。


「……思い出した」 「ようやく」


疵の男の左腕が、血に濡れた刃へと変わる。


その貌は、もはや人ではない。


憎悪も。

後悔も。


すべてを置き去りにした、無機質な貌。


ただ殺意だけが剝き出しになった――

凶気そのもの。


「示す」


「真実を」


「畏怖を」


「そして」


「取り戻す」


「終わりを」


刃が、ゆき姉へ向く。


真っすぐに。

穿つように。


――同じだった。


あの時と。


刹那。


赤黒い鬼の拳が、その刃を弾く。


「させるか」 「二度と」


轟音。


弾かれた刃が、柱へ深々と突き立つ。


「……」


一瞬の、静寂。


凶気が、ゆっくり振り返る。


音もなく、刃を薙ぐ。


次の瞬間。

壁一面に、一文字の斬り跡が走った。


目が、虚ろに光る。


同時に――姿が消える。


「――っ」


ゆき姉の目前。


止まった刃。


その根元へ、鬼の爪が深々と食い込んでいた。


爪が、そのまま肩口を強引に引き裂く。


鮮血。


だが。


次の瞬間には、傷はもう塞がっている。


「……あれは」


九尾が、低く呟く。


「妖に堕ちかけておるな」 「これまでの異形とは、わけが違う」


「……繋ぐは、か細き線のみか」


鬼が、焔の残像を曳きながら踏み込む。


瞬時に懐へ。


刹那。

凶気の天地が反転した。


掌底。


頭が、床へ叩きつけられる。


めり込む。


その反動で、全身が垂直に跳ね上がる。


「……ぐ」


脳裏を過る。


あの神社での対峙。

妖術のような体捌き。


押さえつけた頭部を、そのまま焔が包む。


「ぐォ――」


肉の焦げる臭気。


凶気が、暴れる。


床を軋ませ。


刃を振るう。


だが――


鬼の腕は、びくともしない。


だが。


次の瞬間。


凶気の背から、新たな刃腕が生まれる。


無意識のまま振るわれた、一閃。


半円の真空が、空間ごと薙いだ。

宿が。


斜めに、断たれる。


そして――


鬼の右腕が、宙を舞った。


「はる坊!」


駆け寄ろうとする、ゆき姉。


「来るな!」


鬼が、叫ぶ。


後ずさりながら、ゆき姉を制する。


切断面から、とめどなく血が溢れる。


「大丈夫だ……まだ」


一瞬。

焔が傷口を焼く。


焦げた臭い。


血が、止まる。


凶気が、ゆらりと身を起こした。


黒く焼け爛れた貌。


口元から、赤黒い煙が漏れる。


それでも。


ゆき姉を真っすぐに、射貫くように見据えるその目。


まだ、死んではいない。


「……綾乃」


低い、かすれ声。


ゆき姉の鼓動が、一つ鳴る。


目が、逸らせない。


一瞬。

時が止まった。


次の瞬間。


凶気が、再び駆けた。


ゆき姉の首元を掠めるように、刃が奔る。


だが。


そのまま体勢を崩し、壁へ激突した。


左腕が、消えている。


鬼の爪。


今度は止めるのではない。


――斬り落とした。


凶気が即座に立て直す。


背中の刃が、二の太刀を返す。


しかし、それすら。


鬼の爪は見切っていた。


瞬時に、叩き斬る。


両腕から鮮血が散る。


だが、それもほんの一瞬。


まるで最初から存在しなかったかのように。


傷口は、閉じる。


失った腕など意に介さず。


よろめきながら。


なお、ゆき姉を見る。


めき。


めきめき、と。


骨の軋む音。


全身が、刃へ変わっていく。


残る右腕。

両脚。


そして――貌までも。


再び、ゆき姉へ。


捌きに入った鬼の爪が。


今度は逆に見切られ、捻じるように体ごと掻き飛ばされる。


そのまま。


右腕の刃が、ゆき姉の胸元へ迫る。


――刹那。


黄金色の拳が、その刃を弾いた。


猿だった。


「……あっしも」 「助太刀しやす」


低く、呟く。


「この宿を、このまま」 「終わらせやしやせん」


その姿が、変わる。


全身の毛が逆立つ。


金色の逆毛。


筋肉が、異様な膨張を見せる。


「やめろ!」 「お前では、奴には――」


九尾の声。


だが猿は、退かない。


真正面から、凶気へ構えた。


「こっちは任せて」


ゆき姉の前へ、兎が立つ。


深紅に染まった瞳。


跳ねた耳は、水晶のように透き通っている。


「女将さんだけでも」 「絶対、護る」


そして。


片膝をつく鬼の前へ――


「……大丈夫ですかニャ?」


白銀の爪が、鋭く伸びる。


「終わったら」 「また、湯に行きましょうニャ」


圧倒的な機動力を感じさせる、その背。


だが。


そこに滲むものは――

どこか、悲しみだった。


――第九十三夜・了

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