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雪月花 第九十四夜 証

ふと一瞬。

九尾の尾が揺れ、すぐに静まる。


遠く深い鼓動。


鬼の底で脈打つ、禍々しい胎動の気配。


九尾の耳は、確かに捕らえていた。


そして――

鬼と、目が合う。


「……やはり、か」


細く、息を吐く。


「ここでわらわが下手に動けば」 「境界の亀裂を狙って、鬼は……」


沈黙。


考える。


一瞬だけ、目を伏せ。


「……なれば」


「線、か」


静かに、目を細める。


「終わらせるならば……」 「賭けるより他、あるまい」


「……間に合えばよいが」


その姿が、ふっと掻き消えた。


凶気の刃が、再びゆき姉へ向かう。


立ち塞がる猿。


黄金色の拳が、刃を弾く。


弾道が逸れる。


だが。


刃と化した貌が、そのまま肩口を裂いた。


「ぐ……」


鮮血。


片膝を着く猿。


その瞬間。


兎が跳ぶ。


逸れた刃へ、さらに蹴りを叩き込む。


加速。


刃はそのまま、壁へ深々と突き刺さった。


そこへ。


猫の爪が奔る。


切り裂く。


さらに、もう一閃。


鮮血が飛ぶたび。

疵が、深くなっていく。


そして。


鬼が続く。


力の足りぬ一撃。


だが、十分だった。


疵の底を抉るようにして、刃の右腕を断ち切った。


「やりましたニャ……」


しかし。


次の瞬間。


背中から、新たな腕が生まれる。


その刃の、無造作な一閃。


そして――


猫の首が、飛んだ。


空白。


白い時間。


鮮血とともに舞う、その"いつもの"顔。


誰も、目を離せない。


まるで。


時だけが、取り残されたように。


猿が、吼える。


激昂するように、凶気へ飛び掛かった。


歪な顔面へ、拳を叩き込む。


刃に身体を裂かれ。


鮮血を撒き散らしながらも。


尚。


止まらない。


鬼の爪が、背中の腕を狙って跳ぶ。


深々と突き刺さる。


その瞬間。


あり得ない角度で、脚の刃が振られた。


閃光。


鬼の腕が、宙を舞う。


そして――


猿の半身もまた、斜めに斬り落とされた。


もはや、声もない。


ただ。


壊れていく。


何もかもが。


凶気が振り返る。


背中から伸びる刃を、前へと差し向け。


再び、ゆき姉へと奔る。


「ゆき姉……!」


鬼の声が届く、その前に。


ゆき姉の身体は、深々と貫かれていた。


鬼の視界が、白く染まる。


「――ゆき姉ぇぇぇッ!!」


絶叫。


刃が振られる。


半身を断たれた身体が、鮮血とともに吹き飛ぶ。


そして。


鬼の目の前へ、落ちた。


だが。


次の瞬間。


黒髪が、ゆっくりとほどけていく。


現れた薄桃色の髪と――長い耳。


「……へへ」


血を零しながら。


兎が、笑った。


「やった」 「……騙せ、た」


紅い瞳が、鬼を見上げる。


涙。


消えゆく声。


「……女将さんを」 「護って」


「お願い……」


その言葉を最後に。


兎もまた――兎でなくなった。


鬼の中で。


何かが、崩れる音がした。


黒い焔が、全身を覆う。


それは。


失われたはずの両腕すら、形作るように。


次の瞬間。


鬼の牙が、狂ったように凶気の喉元へ食い込んでいた。


さらに。


焔の腕が、その頭を鷲掴む。


焼く。


焦がす。


「ガァァァァッ!!」


凶気の全身へ、赤黒い罅が奔った。


刃が。


熱に溶けるように、歪み始める。


だが。


鬼の身体もまた、保てない。


焔の中で。


共に、朽ちていくように。


刹那。


鬼の深淵で、巨大な鼓動が脈打った。


背中が、膨れ上がる。


骨が軋む。


貌が、一瞬だけ人の形を失った。


――破れる。


「……はる坊!」


その背へ縋る、か細い身体。


春を帯び始めた儚い冷気が。


痩せた指から、鬼の全身へ流れ込む。


「だめ……」 「一人に……しないで……」


小さな鼓動が、背中を伝う。


呼吸が、重なる。


逆巻いていた黒い焔が。


ゆっくりと、白い冷気へ絡め取られていく。


押さえ込むのではない。


溶け合うように。


寄り添うように。


そして――


圧縮された焔が、凶気の刃へ触れ。


爆ぜた。


静寂。


吹き飛ばされた身体。


倒れたまま、誰一人動けない。


やがて。


鬼が、かろうじて身体を起こす。


だが。


すぐに片膝を着いた。


「はる……坊」


ゆき姉が、よろめきながら鬼の背を抱く。


焼け爛れた傷が、少しだけ癒えていく。


そこへ。


「……遅かったか」


九尾が。


いつの間にか、横たわる凶気の前に立っていた。


「う……」


その影を受け。


ゆっくりと目を覚ます凶気。


九尾が、その貌を見下ろした。


「お前に、よい報せじゃ」


「お前が雪がんとしていた」


「あの者の辱め」


「――すでに、解けておるぞ」


凶気の目が、揺れる。


九尾は、静かに続けた。


「首を示さずとも」


「この忌地の噂そのものが」


「払拭した」


「あの者を穢す呪いを」


静寂。


やがて。


「綾乃……は……」


掠れた声。


九尾が、目を細める。


「あの者は」


「お前を探しておった」


「終わりを告げようと」


「じゃが」


「お前は忌地に堕ちた」


「ゆえに」


「伝えられずにおったのじゃ」


「ずっと、な」


「……ぐ……」


凶気の貌が、歪む。


刃が、震える。


「俺のせい、か……」


「結局」


「なれば……」


「終われぬ……」


「この手で……」


「成し遂げるまでは――」


言葉が、続かない。


刹那。


九尾の瞳が、紅く染まった。


「――それでもまだ」


低い声。


「首が欲しいというのなら」


空気が、軋む。


「わらわが」


「相手になろうか」

凶気の眼に映る世界が、一瞬にして変わった。


漆黒の空。


紅く尖る月。


千の地蔵。


一斉に向けられる、無数の赤い睨み。


視界を埋め尽くす、底のない闇。


それはもはや。


見知った妖の姿などではなく。


まるで、"祟り"そのもの。


――格が違う。


あのときを思い出す――


浸食されていく感覚。


全身に恐怖が覆いかぶさる。


思わず声が上がる。


悲鳴にも似た。


――しかし、その直後。


「お前に」


「言伝じゃ」


九尾が静かに告げる。


深淵の空に、暖かな光を見る。


その向こうから、懐かしい声が響く。


終わりを告げるその声に中てられ――


浄化されていくように。


凶気の身体から、最後の力が抜けた。


焼け焦げた異形の貌が、崩れていく。


刃が、剥がれ落ちる。


やがて。


そこにいたのは。


ただの、疵だらけの男だった。


「……綾乃」


一筋。


涙が落ちる。


「そう……か」


「もう……いいのか」


長い、沈黙。


やがて。


男の肩から、力が抜ける。


「……俺は」


「何を――」


最後まで。


その言葉が続くことはなかった。


「……思い出さぬか」


九尾。


「あの者は、望んでおらぬ」


「殺しなど」


「――お前は」


「人であるうちに逝け」


鬼へ目を向ける。


「ああなってからでは、手遅れぞ」


「――これ以上」


「待ち人を、悲しませるな」


その声に。


男の貌が、ゆっくりと涙の中に解けていく。


瞳の奥へ浮かぶのは。


桜の下で笑う、一人の女。


――綾乃。


意識が、光の中へと。


静かに沈んでいった。


――第九十四夜・了

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