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雪月花 第九十六夜 跡地

ここでのことは、決して人に話してはならぬ。


もし話してしまったら、そのときは――


春の陽気の中で、目が覚める。

桜の咲く山道のベンチ。

目の前には、古びたバス停。

「あれ……」

どうやら、眠ってしまっていたらしい。


妙に深く眠った後みたいに、身体が重い。

頭も、少しぼうっとする。

山の空気はまだ少し冷たくて、それが逆に心地よかった。


ほぐすように背伸びをして、大きな欠伸を一つ。

そのとき。

ふと、視界の端に看板が映る。


ホテルニュー松竹。


「……」


胸の奥が、微かにざわつく。


「……あ」


思い出す。

冬頃に、この宿を予約した。

確かに、その記憶はある。

だが――

泊まった記憶だけが、ない。


「……あれ?」


キャンセルした覚えもない。


嫌な汗が滲む。


「無断キャンセル……か? これ」


それはまずい。

完全に自分ルール違反だ。


慌ててスマホを取り出し、電話を掛ける。


「あ、すいません。つかぬことなんですが……」


「実は、冬頃にそちらを予約してたと思うんですが……」


「たぶん無断キャンセルになってしまって……」


話しながらも、妙な感覚が残る。


まるで。

大事な何かだけを、綺麗に置いてきてしまったような。


「はい、乙鬼です。乙鬼波流……」


「……え?」


「今日?」


どうやら、本日の予約客として登録されているらしい。

ますます訳がわからない。


けれど。


「……まあ、いっか」


不思議と、それ以上深く考える気になれなかった。


電話を切る。

そのとき。

ふと、自販機が目に入った。


脳裏を過ぎる、コーンポタージュ。


理由もなく。

無性に、温かいものが欲しくなる。


ガコン。


取り出した缶は、じんわり熱かった。


「くぅ~……」


甘い湯気が、喉に染みる。


何故だろう。

こんな暖かな日なのに。

どうしてこんなにも、温かさが恋しいんだろう。


飲み干したあと、空き缶はきちんとボックスへ。

その仕草だけが、妙にいつも通りだった。


スマホで地図を確認する。

午後三時。

チェックインには、ちょうどいい時間。


脇道へ入る。


クマ出没注意。


看板を見て、思わず苦笑する。

「……怖」


春先だし、本当に出そうだ。

少し警戒しながら、山道を進んでいく。


やがて。


山の奥に、宿が見えた。


昭和レトロの空気を残した旅館。

ホテルニュー松竹。


「いらっしゃいませ!」


エプロン姿の女将が、笑顔で迎えてくれる。


「すいません、さっき変な電話しちゃって……」


「いえいえ」


その笑顔が、何故だか妙に安心した。


部屋へ案内される。

畳の匂い。

「浴衣はクローゼットにありますからね」

宿の説明のあと、女将は丁寧にお茶を淹れてくれた。

今ではあまり見かけない、昔ながらのもてなし。

口コミ通りの空気だ。


湯気の立つ茶を啜り、温泉饅頭を頬張る。

落ち着く。

窓の外には、満開の桜。


なのに。

ふと。

雪景色も綺麗だったんだろうな、と考えてしまう。

冬に予約していた記憶が、どうしても引っかかっていた。

「また冬にも来るか……」

山の宿は、四季ごとに違う顔を見せる。

きっと、冬も綺麗だ。


「さて」

せっかくだ。

夕食前にひと風呂浴びることにする。

浴衣へ着替えようとして――

「……ん?」

服を脱いだ拍子に、ポケットから細長いものが落ちた。

拾い上げる。

銀色の、不思議な細工物。

雪の結晶のような模様が刻まれている。

「……何だ、これ」

少し高価そうにも見えて、しばらく眺めてしまう。

だが。

「……まあ、いいか」

結局、温泉への欲求が勝った。


湯は、最高だった。

夕食も美味い。

地味豊かな山の味覚が、妙に沁みる。

食中酒に少し酔ったところで、さらに食後の風呂へ。

湯上がりにロビーの自販機でビールを買い、部屋へ戻って広縁で夜風に当たりながら呷る。

絵に描いたような昔ながらの旅館の空気。

こういうのがいい。


ふと、昼間ポケットから落ちた銀細工を取り出す。


雪の結晶のような模様。

細く、美しい銀の棒。


月明かりに照らしてみる。


「……何なんだ、これ」


どうして、こんなものを持っているのか。

そもそも、これは何なのか。


考えても、わからない。


翌朝。

チェックアウトの際、女将へ見せてみる。


「んー……これは」


少し首を傾げ。


「笄、かな?」


「笄?」


「和装に合わせる髪飾り……だと思うけど」


「……へぇ」


髪飾り。


何故そんなものが、ポケットに入っていたのか。


結局わからないまま、宿を後にする。


山道を下りながらも。

何となく気になって、何度も笄を眺めてしまう。


やがて。


クマ出没注意の看板。


その瞬間。


胸の奥で、何かが弾けた。


「――」


クマに襲われ、崖を落ちた記憶。


そして――


雪の中の宿。


温泉粥。


あの笑顔。


透き通るような。

どこまでも優しい、笑顔。


「……ぁ」


呼吸が、止まる。


喉が、震える。


視界が、滲む。


「ゆ――」


言いかけて。

止まる。


思い出す。


もし話してしまったら、そのときは――


そのときは。


――記憶は、消えてなくなる。


……理由は、わからない。


けれど。

それだけは、本能のように脳の真ん中に焼き付いていた。


言葉にしてはいけない。


決して。


あれは。

あの記憶は。


そして。


溢れる。


すべてが。


涙とともに。


止まらない。


どうしようもなく。


胸が、苦しい。


「……また」


掠れた声が漏れる。

何も見えない。


「救われた……」


ゆき姉に。


守られた。


最後の最後まで。


消えていく中で。


生きて帰れるようにと。


鬼の呪いを。


全部――


気づいた瞬間。

膝から力が抜けた。


もう、あの発作も。

二度と。


泣きながら。

記憶を頼りに、山の奥へ進む。


もう一度。

あの場所へ。


獣道を抜ける。


やがて、視界が開けた。


見覚えのある石。


駆け寄る。


慰霊、と――


だが。


文字は、なかった。


その隣の、小さな石。


夢と――

いつはる――


だが。

同じ。

何も刻まれてはいない。


ただ。

古びた石だけが、静かに二つ。

並んでいるだけ。


ふと、その向こう――

樹齢を感じさせる立派な幹に、満開の桜。


春の日差しを浴びながら。

静かに風へ揺れて輝いている。


その根元に、

細く立ち上る湯けむり。


湯が、か細く湧いていた。


覚えている。

匂い。


足元。

風化した建物の痕跡。


あまりにも朽ちていて、誰も――


けれど。

わかる。

忌地は、浄化された。


記憶は――


この世から、消えた。


――ゆき姉。


声にはしない。


ただ。

何度も。

何度も。

心の中で、その名を呼び続けた。

声にならない声で。

枯れるまで。


――どれくらい経ったか。


日が傾き始め。

声もなく、立ち尽くしていると。


「いい場所ですよね、ここ」


背後から、見知らぬ声。


振り返ると。

一眼レフを手にした若い青年が、微笑んでいた。


聞けば、ここは知る人ぞ知る写真スポットらしい。

SNSでも人気で、四季折々の風景写真が出回っているという。


「別に何もないはずなんですけどね」

「不思議と、また来たくなるんです」


青年はそう言って、笑った。


――そうか。


この場所はまた、人を笑顔に。


――成し遂げたんだ。


――第九十六夜・了

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