雪月花

雪降る湯の宿ストーリー「雪月花」。

雪月花 第一夜「雪宿り」

雪が降ってきた。 おかしい。今日はそんな予報じゃなかったはずなのに。

僕はカメラ一式を背負って冬の山奥を一人歩いていた。 その足取りが自然と早まる。

程なくしてみるみる風が強くなってくる。視界は悪くなる一方で、だんだんと歩きづらくなる。 ちょうどおあつらえ向きの山小屋のようなものがあったので、そこに一旦避難することにした。 山の天気はすぐ変わるはずだから大丈夫だろうと、このときは思っていた。

……

一時間が経った。吹雪は一向に収まりそうにない。それどころか酷くなる一方のようにも思える。 スマホで天気予報を確認しても相変わらず「晴天」の表示のまま。まったく当てにならない。

じっとしていると体も冷えてくる。無理にでも歩くべきなんだろうか。 恐る恐る外に出てみるが、もはや数メートル先すら見えないくらいの猛吹雪。 とても歩ける気がしない。

一体どうしてこんなことに。別に山を嘗めていたわけじゃない。 いくら山の天気は変わりやすいと言っても、そもそもこのあたりの山で急にこんな猛吹雪になるなんていうことがありえるのか。

だんだんと気持ちが不穏になってくる。

「雪女」。 以前雑誌で妙な記事を読んでいたせいで、不意にその言葉が頭をよぎる。

確かこの山には雪女が棲むとかで、昔から地元民に恐れられているのだそうだ。

僕は基本的にそういう話はまったく気にしない。 そもそもこの山にも、もう何度も来ている。

しかし今回ばかりはそんな普段の行いがいよいよ仇となったのかもしれない。 今の状況はどう考えても普通じゃない。

その瞬間、小屋の扉がぎぃーっと勝手に開く。 吹き込む雪とともに入ってくる真っ白な着物姿の女性。

出た。

もはや声も出ずに一瞬で体が竦み上がる。

「こんなところで何してるんですか!?」

片隅で腰を抜かしている僕を見つけるや否や、逆にものすごく驚かれてしまった。 どうやら妖怪の類ではないらしい。

「いや……吹雪が収まるまで凌がせてもらおうかと……」 「こんなところにいたら凍えちゃいますよ!」

そう言って咄嗟に手を貸してくれようとする。

「だ、大丈夫!まだ何とか歩けますから……」 「そうですか?……でもこのままじゃ危ないですから、とにかくうちで温まっていってください!」

確かにこのままここにいるのはかなり危険な気がする。 抜けた腰をどうにか立たせ、ここは素直にその言葉に従うことにする。

彼女に連れられて一体どのくらい歩いただろうか。何やらどこかの建物に着いたみたいだ。 ガラス越しに温かな光が漏れる引き戸を、ガラリと開けて入っていく。

「さあ、どうぞ。」

後に続いて僕もいそいそと入る。

戸を閉めると、空気が温かい。 雪を払いながら、助かったんだと確信する。

見ればそこは何とも趣ある和の空間。 決して広くはないけれど、やんわりと上品さが漂う。

番台のようなものが見えるが、ここは旅館か何かだろうか? しかし僕と彼女以外には人っ子一人いなく、全体が落ち着いた静けさに包まれている。 外が吹雪であることすら微塵も感じさせない。

「どうぞ上がって、囲炉裏で温まってください。」

玄関を上がった先はロビーだろうか。ふかふかの絨毯の床に、ゆったりしたソファーと囲炉裏テーブルがあった。 囲炉裏にはすでに火の入った炭が置かれていて温かい。 僕は遠慮せずソファーに腰かけて、赤く灯る炭火にありがたく手をかざす。

「すみません、助かりました。急にこんな吹雪になるなんて予想してなかったもので……」 「いえいえ、お気になさらないでください。山の天気は難しいものですから……」

そう言いながら、さりげなく熱いコーヒーまで淹れてくれる。 地獄に仏とはまさにこのことだろうか。

「ここは……旅館なんですか?」 「はい、『湯庵 雪月花(ゆあん せつげっか)』と申します。まだ駆け出しの新米旅館ですが、以後どうぞよろしくご贔屓にお願いします。」

やはりそうだ。まさかこんな緊急時に旅館が見つかるなんて。

聞けば部屋はまだ空いているらしく、まさに九死に一生。 極寒の山小屋で長らくじっとしていたせいで、体は芯まで冷え切り体力もすっかり底をついている。 この吹雪もいつ収まるのかわからないし、もう今日はここに泊まってしまおう。

さっそく宿帳に「乙鬼葉流(おとぎはる)」と記名。そのまま部屋まで案内してもらう。 そういえば名前の読み方を聞かれなかった。珍しいこともあるものだ。

「どうぞ、こちらのお部屋でございます。」

襖を開けて部屋に入った瞬間から、真新しい畳の匂いがふわりと鼻に抜ける。 安心した途端、急に疲れが込み上げてくる。

ひとまず座椅子に腰を下ろして一息。 すると彼女が傍らに膝を着いて、すっと姿勢を正す。

「本日はようこそお越しくださいました。当館女将の白咲雪音(しろさきゆきね)と申します。」

ふと、その名前をどこかで聞いたことがあるような気がした。 ネット?テレビ?……いや、夢でも見たんだろうか? 今は疲れていて思い出す気力も出ない。

しかし失礼ながら見た目が若すぎるせいか女将さんと呼ぶイメージが湧かない。 じゃあ白咲さん?いや、雪音さんの方がしっくり来るような気がする。 馴れ馴れしいようだけど、直感がそう告げる。

「浴衣はこちらにお持ちしました。どうぞごゆるりとなさってください。」

そう言うと、丁寧に襖を閉めて行ってしまった。

一息入れたところで、まずはとにかく体を温めよう。 浴衣に着替えてさっそくお風呂に出掛けることにする。

湯暖簾をくぐる。脱衣場には先客はないようだ。 ぱぱっとタオル一丁になってガラリと内風呂の戸を開ければ、その先には見事な岩風呂。 いかにも温泉来たなーという気分にさせてくれる景色だ。

限界まで冷え切った体に温泉だなんて、さぞかし至福に違いない。 はやる気持ちを抑えつつまずは体を清潔にして、足先からかけ湯をし、白濁した湯に沈む。

「くぁー……」

自然とおっさんみたいな変な声が出る。 じんわりと体の芯まで染み込んでくる湯の温もり。ライフゲージが回復していく音がするようだ。

その瞬間、後ろでガラリと戸が開く音がした。 いよいよ他の泊り客との遭遇だろうか。

湯けむりでよく見えないが、やけに背が小さいような気がする。子供かな?

洗い場でわしゃわしゃと洗う音が聞こえ、しばらくしてかぽーんと湯桶が転がる良い音が響く。 やがてこちらにひたひたと足音が近づいてきて、湯の中にざあーんと入ってくる。

「いやー、良い湯ですにゃー!」

豆絞り柄の手拭いを頭に乗せて、いかにもまったりとした声で話しかけてきたのは、人にしては何かおかしい。 半分猫っぽいような、ゆるい顔の何か。

「やはりこの神里(かむり)温泉の湯は格別ですにゃ!」

流れるようにマイペースに話し始める。 神里温泉という名前にも引っかかるものがあったのだが、またしてもよく思い出せない。

「今は小さな一軒宿だけですが、これでも昔はけっこうな湯の町だったんですにゃ!」 「こんな良いお湯なのに、寂れちゃったんですか?」 「まあいろいろあったんですにゃ……」

何か曰くつきの温泉ということなのだろうか。

結局いろいろ話し込んでいたら、体を温めるどころかすっかりのぼせてしまった。

ひとまず湯冷まし処で瓶牛乳。 隣で彼もまた、腰に手を当てて瓶牛乳をぐいぐい飲んでいる。

「あ、そうそう申し遅れましたにゃ。ワガハイはこの旅館で居候してます湯猫(ゆねこ)と申しますにゃ。見た目どおりただの猫ですけど、よろしくですにゃ!」 「あ、はい……よろしくです。」

温泉のマスコットか何かかと思ったけど、考えたらそのままお湯に浸かってたんだから着ぐるみというわけでもなさそうだ。 この旅館は一体何なのだろう?

……

湯猫の話では露天風呂もあるということなので、部屋に戻る前に涼みがてらぶらりと偵察。 案内表示に従って露天風呂方面へ廊下を歩く。

途中、やけにひんやりした空気の場所があって足が止まる。 ふと見ると、旅館の景色とは明らかに異質な部屋。 その襖には注連縄が張られ、霜が降りているのか凍っているのか、きらきらと光っている。

何かのまじないだろうか。 不意に雪音さんのことが気になりだす。

ぎゅるる~と腹が鳴る音でふと我に返る。 そういえば今日は昼食を食べていない。 そろそろ夕食の時間だし、部屋に戻ろう。

……

「失礼します。お夕食をお持ちいたしました。」

部屋でローカル番組を見ながらだらだら過ごしていると、襖越しに雪音さんの声が聞こえた。

スッと襖が開いて、次々に運び込まれる料理。 程なくして卓上にはズラリと見事な懐石が揃った。

山菜、川魚、刺身こんにゃく……奥では固形燃料の炎で猪鍋がほこほこと湯気を立てている。 もちろん豪華な料理も気になるところだが、このとき思わず雪音さんの顔をじっと見てしまう。

まさか彼女が雪女ということはないだろうか。

明らかに疑いの眼差しを向ける僕と一瞬目が合ったのだが、彼女はただにっこりと微笑む。

「ごゆっくり。」

考えていても仕方がない。 寒さで奪われた体力を戻すためにも、とにかく目の前の夕食をいただくことにする。

……

腹もすっかり満たされ、あとはぐっすり眠るだけ。 完全回復まであと少しなのに、やはりどうしても雪音さんのことが気になってしまう。

静かな夜だが、よく眠れるだろうか。 というより、無事に明日を迎えられるのだろうか。

布団の中で暗闇を見上げていると、不安と安らぎが入り乱れては消えていく。 やがて疲れ果てた僕は知らぬ間に眠りに落ちる。

雪は音もなく降り続いていた。

雪月花 第二夜「面影」

一面に咲く桜の中にいた。 懐かしいみんなの笑い声も聞こえる。

「だぁめ、この卵焼きは私のー!」 「ゆき姉、ずるい!」

今日は大好きなじいちゃんに連れられて、村のみんなでお花見。 ゆき姉とはまたいつもの喧嘩。

「はる坊こそ、私の分の里芋食べちゃったじゃない!」 「だってゆき姉、ぜんぜん食べないんだもん!」

喧嘩するほど仲が良いなんて、村の子供たちにもよくからかわれたっけな。 覚えているのは温かな湯けむりと満開の桜に包まれた村の景色。

その景色がさらさらと霞のように消えていく。

「あんなに楽しかったのに、あんなに幸せだったのに、みんなどうして死んじゃったの?」

唐突に悲しい気持ちが溢れ出したかと思うと、みるみる視界が白く染まっていく。

……

「朝か……」

子供のころの夢か。寝起きの気分がやけにブルーだ。 それにしても変な夢だった。僕には祖父も姉もいないのに。

「まあ夢なんてそんなもんか……」

そういえば昨夜は雪で帰れなくなって、旅館に泊まっていたんだった。

部屋の窓から外を見ると昨日のような吹雪こそ収まっていたが、雪はまだ深々と降り続いている。 すっかり雪に閉ざされた山の中。これでは今日も帰るのは難しいかもしれない。

とりあえず気分転換に朝風呂に入ろう。 今朝は昨日偵察しておいた露天風呂にでも行ってみようか。

館内は空調が効いているとはいえ、やはり朝方はかなり冷え込んでいる。 浴衣の上からしっかり羽織を引っ掛けて出掛ける。

昨日見かけた変な部屋は今朝もそのままだ。相変わらずこの部屋の前だけはひどく寒い。 さっさと素通りして突き当たりまで来たところで、スリッパを下駄に履き替える。 外に出て渡り廊下をしばらく進むと、やがて見えてくる湯暖簾。

見れば二つある脱衣カゴのうち一つが埋まっている。どうやら先客がいるようだ。

湯けむりと降雪で真っ白な視界の中、寒さから逃れるようにさっさと湯舟に入る。 贅沢にも朝から雪見風呂。顔と体のこの温度差がたまらない。

「おお、おはようございますにゃ!」

先客は昨日も内風呂でご一緒した湯猫。他に泊り客はいないのだろうか? さっそく饒舌な温泉トークが始まるかと思いきや、今朝は無口だ。

鳥の声もない、雪に埋もれた静かな朝。 立ち上る湯けむりの向こうから、絶え間なく注がれる湯の音だけが聞こえる。

注ぎ口の傍らに、小さな祠のようなものがあることに気付く。 その後ろには注連縄が締められた大木。寂し気な冬の枯れ木だが、その立派な姿からは確かな年輪を感じる。

「あれは神里温泉神社のご神木ですにゃ!」

ようやく湯猫が口を開く。

「開湯八百年、この神里温泉を見守り続ける由緒正しき神さまですにゃ!」 「そうなんですか……」

やはり温泉に神社仏閣は付き物だ。 それだけで自ずと効能が高まるのがよくわかる。

ふと、今朝のあの妙な夢を思い出す。

あの満開の桜の木にも、ちょうどこんな注連縄が締められていたっけな。

……

温泉たまごに温泉おかゆ。

朝食も美味しくいただき、すでに体調は万全。 つい昨日まで凍死寸前の憂き目に遭っていたことがまるで嘘のようだ。

オーバーキルならぬオーバーヒール。 ここに来る前よりもむしろ体調が良くなっている気さえする。

本当に、雪音さんには感謝してもしきれない。

あとは無事に帰路に就くだけなんだが、残念ながら今日もこの天気。 雪の中を歩く装備があるわけでもないし、この深雪の中を無理に歩いて帰るのはさすがに危険だろう。 せめて麓の温泉街まででも送迎などしてもらえないだろうか。

ロビーに出てみると、ちょうど雪音さんがいたので訊いてみた。

「申し訳ありません……山の中の一軒宿なもので、お車の出入りは難しいんです。」

ということはタクシーを呼ぶこともできないわけだ。

「じゃあもう春まで連泊になっちゃうかもしれませんね……」

冗談っぽく言ってみたが、案外冗談では済まないのかもしれない。

「それに連泊ったって、そんなに持ち合わせが……」 「あ、それならご心配なさらなくても大丈夫ですよ。」 「え?」 「冬の間は宿代をいただいていないんです。」 「はい!?」

ここに来てからいろんな不思議なものを目にしてきたが、その何よりも衝撃を受ける話だった。

単なる善意でできるはずがないし、何かよほど特殊な裏事情があるに違いない。

しかしそれを気にしたところで他に選択肢があるわけでもない。 ここは素直に感謝するしかない。

「そうなんですか……それは助かります。でもそういうことなら何もしないっていうわけには……」 「いえいえ、お気遣いなさらなくて大丈夫ですよ!」 「あ、そうだ!ちょうどカメラもあるし、宣伝のためにこの旅館を取材させてくださいよ!」 「せ、宣伝……ですか……」

気の利いた申し出のつもりだったが、思ったより反応が良くない。

「だめ……ですか?」 「その……まだ行き届かないところだらけでお恥ずかしいですし……」 「そ、そうですか?」

旅館が宣伝を嫌がるなんて珍しいとは思うが、そう言われるなら仕方ない。 これ以上推すのはやめておこう。

……

滞在することになった途端、急に時間を持て余してしまう。 玄関に置いてあった番傘を借りて、気まぐれにふらっと外に出てみる。

昨日は吹雪のせいでまったくわからなかったが、そこは小さな和庭園のようになっていた。 灯篭につくばいが良い形に配され、一様に雪をかぶって実にほっこりとした冬の情景を描いている。

そんな傍らに、小さな歌碑のようなものがあることに気が付いた。

「春の糸 忘れ果てりと 風流れ うららかなる日々 遠くなりけり」

どういう意味だろう。よくわからないが何となく寂し気な歌だ。 彼女が詠んだのだろうか。

何故かふと、夕べ見た夢を思い出す。

「……ゆき姉?」

夢に出てきたゆき姉という少女の顔と、雪音さんの顔が何気なく重なって見えた。

……

夜の帳が降りる。 今夜もまた変な夢を見なければ良いが。

「失礼しますぅ~。お布団敷きに参りましたぁ~。」

窓辺で湯あがりサイダーを開けて寛いでいたところ、襖越しに聞き覚えのない声がした。 入ってきたのは白衣に身を包んだ少女。

「お初にお目にかかりますぅ~。お布団敷き担当の枕兎(まくらう)と申しますぅ~。」

やたらと眠そうな表情に、テンション低めで間延びした喋り方。 その声を聞いているだけで何だか眠りに誘われる。

それによく見ると湯猫と同類の雰囲気がある。人のようでいてどことなく兎のような。 もう今更驚くこともないが。

手際よく真っ白な布団が綺麗に敷かれた。 しかし何が納得いかないのか、最後まで枕の位置にやたらとこだわり続けて悩んでいる。

「お客さん、昨日はよく眠れましたかぁ~?」 「あ、ええ、おかげさまで……」 「そうですかぁ~、じゃあ今夜も白桜花香(はくおうかのこう)、焚いておきますね~。」

昨夜はお湯から戻ったらすでに布団が敷かれていたが、そういえば部屋全体が微かに良い香りに包まれているような気がしていた。 なるほどテレビの横にこんな香炉が置いてあったのか。全然気が付かなかった。

「では今宵も最高の眠りを~。失礼いたしますぅ~。」

温泉で温まった体にお香のリラックス効果が相まって、眠気が程よく襲ってくる。 おかげで今夜もよく眠れそうだ。

これであとは変な夢さえ見なければ良いのだが。

やがて部屋の明かりが静かに落ちる。

雪はまだ深々と降り続いていた。

雪月花 第三夜「祭り灯」

一体何が起きたのかわからなかった。 霞む視界の中、大好きだったじいちゃんが血だらけで目の前に横たわっている。

「じいちゃん、じいちゃん!」

気持ちとは裏腹に、僕の手はみるみる血に染まっていく。 満開の桜の下、そこは一面の血の海。

村人のみんなももう誰一人として人の形を留めていない。

どす黒い肌と真っ黒な爪。 僕の体に一体何が起こっているのだろう。

「いくら神主さまが偉くても、やっぱり鬼の子なんて拾うべきじゃなかったんだ!」

あれはいつも一緒に遊んでいたきぬ太郎。 後ろに必至に庇ってるのは、その妹のお小夜。

鬼の子って?

考えている間もなく、気付いたときには彼らも切り刻まれ肉片と化していた。

「はる坊……」

振り返ると、ボロボロの巫女装束を纏った傷だらけのゆき姉がいた。 息も絶え絶えだが、見ればその手にはしっかりとじいちゃんの御幣が握られている。

何かを描くように、御幣で空を切る。

「生鬼入滅!その邪悪、永久に封じ給え!」

その瞬間、ゆき姉から強烈な光が発せられた。 眩しくて何も見えない視界から、ゆき姉の叫ぶ声だけが響く。

「逃げて、はる坊!」

寒い。すごく寒い。

そのまま気を失ったのか、やがて光は暗闇へと変わり、どこからともなく男たちの話し声が聞こえる。

「あの山には雪女が出たそうだな……」 「可愛そうに……」

……

はっと目が覚める。 ものすごい寝汗だった。

時計を見るとまだ夜中の三時。

あまりにも血生臭い悪夢。 気持ちのダメージは一昨日の比じゃない。

ここに来てから三日目。 快適に過ごさせてもらってる反面、夢見はどんどん悪くなる。 このままでは頭がおかしくなりそうだ。

布団にいても眠れそうもない。 気分転換のつもりで窓辺の椅子に腰かけて、冷蔵庫の湯あがりサイダーを開ける。

そうして放心状態のまま時間だけが過ぎ、やがて朝を迎えた。

気分とは裏腹に、空は久々の晴天。 太陽を見られただけで、何だか少し救われたような気がした。

……

思い切ってこの妙な夢見について相談してみようと思った。 もしかしたら少しでも楽になれることもあるのかもしれない。

今朝も朝食の用意で部屋に来てくれた雪音(ゆきね)さんに、悪夢で困っていると話してみた。

「そうですか……白桜花香(はくおうかのこう)をもってしても眠れないほどの悪夢なんですね……」 「ええ……」 「……もしかしたらそれは、何か善からぬものが憑いているのかもしれませんね。」 「善からぬもの……」 「少し遅くなってしまいますが、後ほどお祓いをしてみましょう。」 「お祓い……ですか。」 「はい。本当は今からでも執り行いたいんですが、今日は神里(かむり)温泉祭りの日なので……」 「え、祭り?」 「そうなんです。……と言っても今は一軒宿しか残っていないので、私たちだけの小さなお祭りなんですけどね……」

寂しそうに笑う。

「でもいつかまた、この場所に人々の笑顔が溢れる日が戻ってくると信じてるんです。」

……

その日は本当に祭りだった。

会場はなんと露天風呂の敷地。 祠に向かって小さな櫓が組まれている。 祭りのメインは湯の神への神楽奉納だという。

四方にぐるりと紅白の提灯が下がり、見れば出店が三軒も出ている。 小規模ながら、本当に雰囲気は祭りそのもの。

出店は焼きそばに射的にわたがしという、いかにもレトロなラインナップ。 そのすべてを、なんと湯猫(ゆねこ)一人が掛け持ちでやっていた。

浴衣姿の枕兎(まくらう)が、わたがしを手に射的に夢中になっている。 そしてその傍らにもう一人、初めて見かける猿のような何かがいる。

日差しと湯の熱気のせいだろうか、浴衣に羽織という格好でも不思議と冷えを感じない。 これなら神楽も落ち着いて見ることができそうだ。

正午になって、神楽奉納の儀が始まる。

巫女装束を着飾った雪音さんが櫓に上がると、場の空気が一気に変わる。 音が消え、そこにいる者すべての視線が雪音さんに集中しているのがわかる。

やがて神楽が始まる。 その神々しくも艶やかな舞い姿に、時間が経つのもすっかり忘れ見惚れてしまう。

ふと、雪音さんの体からぼんやりと白い光が発せられていることに気付く。 よく見ると彼女の周りにあるものがメキメキと音を立てて凍りついていく。

そしてどこからともなくひんやりとした空気が流れてくる。

「これは……」 「あまり近づきすぎると凍っちまいますぜ。」

ちょうど僕の隣で神楽を見ていた、猿のような見知らぬ半獣半人が声をかけてくる。

「神楽の最中は気が高まるとかで、どうしてもご神木の封印が効きづらくなるんだそうで。」 「ご神木の封印?」

普段、彼女の力はご神木の加護によって封じられているという。 しかし神楽などで特殊な精神状態に入ると、どうしても封印との力の拮抗が保ちきれなくなるのだそうだ。

やっぱり雪音さんは普通の人間じゃない。 最初に思ったとおり、本当に雪女なのかもしれない。

だとすると雑誌の記事で読んだ話とはまるで違っている。 冷気で取り殺されるどころか、逆に凍えそうになっていたところを救ってもらった。

それにあの夢。 何かが僕に語りかけているようにも感じられる。

どうしても彼女と重なって見えるあの「ゆき姉」という存在。

僕は普通の家庭に生まれ普通に育った普通の人間。 そもそもあんな過去なんて存在しない。

なのに妙に懐かしさを覚えるのは一体どういうことだろう。

自分の置かれている状況がよくわからない。 頭の中が混乱する。

「おっと、申し遅れました。手前、当館で板前をやっております酒猿(ささましら)と申します。お初にお目にかかります!」 「あ、はい、初めまして……」

なるほど、温泉担当が猫、布団担当は兎、そして料理担当が猿というわけか。 動物たちがこの旅館を支えているというのも、今となっては何か霊的な力を感じるような気がする。

「手前、実は板前やらせてもらいながら密かに演歌歌手デビューを目指しておりまして……ステージの方はこのあとすぐですんで、ひとつ応援の方を是非よろしくお願いしますよ!」 「は、はぁ……」

そしてみんなどこか人間臭い。 八百万の神とはこういう者たちのことを言うのかもしれない。

僕ら人間も含めて。

やがて神楽を舞い終えた雪音さんが楽屋から戻ってくる。 不思議な冷気は治まり、格好も普段の着物姿。

「お祭りはもう少し続くので、終わり次第お祓いの準備をしますね。」 「え、あ、はい……すいません。」 「それまでは、一緒にお祭りを楽しみましょう!」

おもむろに僕の手をぎゅっと掴んで引っ張る。 僕は何も考えられないまま、再び賑々しくなった祭りの熱気に呑まれていった。

……

夕方になって、盛大のうちに祭りは幕を閉じた。 櫓も出店もすっかり片付き、元ののんびりとした露天風呂の姿に戻る。

「では、お祓いの準備ができましたのでこちらへどうぞ。」

雪音さんに案内されたのは、あの冷気を纏った謎の部屋。 中には祭壇のようなものがあるが、まるで部屋全体が冷凍庫のように冷えていて、すべてがキラキラと白く光って見える。

こんなところに一体どのくらいの間いなければならないのか。

「少し寒いですけど、すぐですから我慢してくださいね……」

少しなんていうレベルじゃない。

祭壇の前に僕を座らせると、さっそく御幣を振りかざし、勢いよく祓う。

「其の背に憑きし邪悪なる御霊、此処に形成し給え!」

言霊が部屋中に共鳴したかと思うと不思議と寒さがやわらぎ、僕の体から黒いモヤのようなものが出てくるのが見える。 モヤはやがて人の形のようになって、祭壇の上から僕らを見下ろす。

「あなただったんですね……」

雪音さんが異形に語り掛ける。

「ソノ者ニ見セシハ前世ノ記憶ナリ……」

頭の中に直接話しかけてくるような黒い声。 前世の記憶?

「ソレデモ我ヲ拒ムカ……」 「今すぐ出て行って……」 「コレガオ前ノ願イダッタノダロウ?」 「彼を苦しめることなんて望んでない!」

その瞬間、雪音さんの体から強烈な光が放たれたかと思うと、目の前の祭壇がバキバキと凍りだし、やがて粉々に砕けて跡形もなくなった。

「す、すごい……」

僕はただ呆気に取られている。これが雪女の力。

「シカシモウ遅イ……ソノ者、既ニ全テヲ知ル運命ナリ……」

そう言い残すと、モヤは散り散りになって消えた。 途端にめちゃくちゃな寒さが全身を襲う。

「ちょ、ちょ、めっちゃ寒いんですけど!」 「あ、すいません!もう大丈夫ですよ!お祓いは終わりましたから!」

ガタガタ震えながら部屋を逃げ出す。 その足で温泉に直行、その場はどうにか難を逃れた。

……

これで今夜は本当に悪夢を見ずに済むのだろうか。 そんな不安も完全に帳消しになるくらいに、一日の疲れがどっと込み上げてくる。

今日もいろんなことがありすぎた。 眠気に任せて布団にもぐった途端、僕は一瞬で眠りに落ちていた。

窓の外の庭先に、怪しげな黒い影が蠢いているとも知らず。

「やっと見つけたぞ……雪女ぁ!」

雪月花 第四夜「邂逅」

「逃げて、はる坊!」

その真っ白な姿から放たれる強烈な光に目が眩む。 突然、冷気を纏った突風に吹き飛ばされる。

「ゆき姉!」

辺り一面に轟音のように風の音が鳴り響いて、自分の声すらまともに聞こえない。

ゆき姉の最後の言葉を背に、僕はわけもわからず走った。 途端に足を取られて、山を転げ落ちる。

目の前が真っ暗になった。

「神里村に雪女が出たんだってなぁ。」 「おっかねぇなぁ……」

男たちの話し声で目が覚めた。 何故か僕は布団の中にいる。

ここは、どこかの家?

「お、ようやくあの子が目ぇ覚ましたみてぇだぞ。」

知らない男の人が僕の方へ歩み寄る。

「大変だったなぁ。気分はどうだ?」 「あ、ありがとうございます……大丈夫です……」 「おめぇも雪女に襲われたんだべな?」 「雪女……?」 「怖ぇ目に遭ったなぁ……でもここにいりゃ大丈夫だ!」

彼らが何を言ってるのかまったくわからない。

どうやら僕はあの後、たまたま村を訪れた誰かに助けられたらしい。 その人は村の惨状を目の当たりにして慌てて引き返したが、その途中で山道に倒れていた僕を見つけたんだそうだ。

「この子の前で言うのも気が引けるが、村人は全員凍ったまま粉々だとよ……」 「まったく雪女ってのは恐ろしい。この子は本当に運が良かったに違ぇねぇ。」

違う。 村のみんなを手にかけたのは僕だ。

ふと自分の手を見る。 元の人間の手。 あれだけ浴びたはずの返り血もすっかり消えていた。

「ゆき姉……」

それから数日が経った。 すっかり元気を取り戻した僕は、みんながまだ寝ている早朝を見計らって、家をこっそりと抜け出す。

一度も村から出たことのない子供の僕には、村への帰り道なんてわかるはずもない。 それでもとにかく勘を頼りに必死に歩いた。 村に帰ればきっとゆき姉に会える気がしていたから。

そして何日か過ぎ、一体どれくらい歩いた頃だったか。 朦朧とした意識の中、僕は奇跡的に村に辿り着くことができた。

見慣れた家々はすべて壊れ、そこかしこに真っ白な雪が積もっている。 あの温かい村の姿はもう見る影もなかった。

それなのにどこからか、微かにゆき姉の匂いがする気がした。

神社の前で、桜が満開のまま凍り付いている。 楽しかった思い出が溢れ出して、涙が出る。

僕は残り少ない力をふり絞り、ゆき姉を探し続けた。 声が枯れても、ゆき姉の名を叫び続けた。

命尽きるそのときまで。

……

静かな朝だった。

顔を洗って窓辺の椅子に腰かけて、ただずっと外を眺める。

不思議と気持ちは落ち着いていた。

ふらっとロビーに出てみると、そこに雪音さんが待っていてくれた。 まるですべてを察しているようだった。

「ゆき姉……」

夢の続きを見ているような感覚だった。 目の前の雪音さんが本当にゆき姉のように見えていた。

沈黙が続く。 静寂の中、自分の心臓の音だけが徐々に大きくなっていく。

「おかえり、はる坊。」

僕の中で音を立てて何かが決壊した。 雪崩のようにすべてが溢れ出す。

「ごめん、ゆき姉、ごめん!」

ぐしゃぐしゃのまま僕は、ただ同じ言葉を繰り返すことしかできない。

ゆき姉はすべてを背負って僕を救ってくれた。 それなのに僕は救われた命を粗末にしてしまった。

いろんな罪悪感が込み上げては、すべてがただ「ごめん」という言葉になって溢れ出す。

でも仕方なかった。 僕にはどうしてもゆき姉が必要だったから。

あまりに頼りないのはわかってる。 でももう二度とゆき姉を失いたくない。

……

どれくらい嗚咽にまみれた時間が続いたか。 傍でずっと慰めてくれていたゆき姉が、静かに語り出す。

「でもね、本当はお礼を言うのは私の方。」 「え……?」 「今こうして幸せでいられるのは、はる坊のおかげだから……」

一度その力が覚醒してしまえば、それから先はどこへ行こうとずっと一人ぼっち。 ただ虚ろに吹雪の中を彷徨い続けるだけ。

でもそれが雪女の宿命。 いずれはそのときが訪れることはわかっていた。

何も考えられないまま幾星霜、どこをどのくらい彷徨ったのだろうか。 壊れゆく心のまま、いつしかその足は自然と故郷に向いていた。

誰に会えることもないと知りながら。

村はもう跡形もなく朽ちていた。

見覚えのある景色といえば、壊れた神里神社の裏で滾々と湧き続ける湯。 そしてそこに今もしっかりと根を張るご神木だけだった。

しかしそれはかつて巫女として仕えていたあの頃とは見違えるほど立派になっていた。 知らぬ間に長い時が流れていたことを思い知る。

そのご神木の傍らで、何もできずただ呆然と立ち尽くしたまま、何日も過ぎた。 これからどうすれば良いのかと、宛もなく問い続けていた。

気が付くと、ずっと吹雪しか見えなかったはずの視界が徐々に色を取り戻し始めている。 はじめは何が起きているのかわからなかった。

ざわめきの中にふと、ご神木の声が聞こえる。

それは僕の最期の想い。 天に届いていたのか、ご神木に不思議な力が宿っていた。

雪女の呪いを封印する力。

まるで神里の湯けむりとともに相殺されていくかのように、ゆき姉をずっと取り巻いていた力の暴走が消え去っていく。

ご神木の傍にいる限り、もう吹雪に閉じ込められることはない。

そうして温かな空気を取り戻したゆき姉の周りには、いつしか動物たちが集まり始めていた。 その触れ合いの中で、少しずつ心に色が戻っていくのを感じていた。

はる坊に逢いたい。 またみんなの笑顔に包まれた穏やかな日々を送りたい。

いつしかそんな願いを抱くようになっていた。

一匹の猫が、ゆき姉に語り掛ける。

「それならまずこの場所を好きになってもらえるようにしましょうにゃ!」 「ここを……好きに……?」 「せっかく温泉が湧いてるんですにゃ!この神社を直しておもてなしできるようにしましょうにゃん!」

動物たちがゆき姉の願いに呼応し始める。 ゆき姉だけじゃない、みんなもこの故郷が好きだから。

神里温泉の神もまた、そんな彼らに大きな力を与え給う。 言葉、姿、能力、知恵。必要とあらば如何なるものさえも、そこに恵みとなってもたらされた。

そうしてこの奇跡の旅籠「神里温泉 湯庵 雪月花(かむりおんせん ゆあん せつげっか)」が始まった。

……

「そうだったんだ……」 「だから、ね?もう泣かないで!」

そっとタオルを差し出してくれる。 僕はぐしゃぐしゃのままだった顔を、いそいそと拭う。

「そっか……宿帳の名前、どうりで読み方を訊かなかったわけだね……」 「本当は苗字が読めなかったけど、はる坊って気付いたらつい動揺しちゃって……」 「そっか、前世では僕たちは姉弟だったから、僕は『白咲 葉流(しろさき はる)』だったわけか……違和感あるなぁ……」

二人の空気に笑顔が戻った。

「でもこうしてまたはる坊に逢えたのは、昨日お祓いした彼女のおかげなのかもしれないね。」 「あ、そういえばあれって……?」 「九尾狐。私たちよりずっと力の強い精霊。」 「そ、そんなものが僕に……」

その瞬間、玄関の引き戸がガラっと開く。 そして一人の長身の男がぬっと入ってくる。

「一晩泊めてくれないか……」 「あ……」

ゆき姉がその顔を見て唖然とする。 何者だろう?格好がまるで時代劇のような袴姿だが。

「政右ヱ門……さん……」

その男の背後から黒いモヤのようなものが出ていたことに、このとき僕はまだ気付くことができなかった。

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