雪月花

雪降る湯の宿ストーリー「雪月花」。

雪月花 第一夜「雪宿り」

昔々のこと。 この山深い温泉地では、村から選ばれたもんが山奥の湯宿に居残って、冬の番をするという習わしがあったそうな。

ある湯宿では政右衛門という番のもんが一人で寝泊まりしとった。 その夜は、このあたりでは珍しい大吹雪。

「あーあ、今日は客などあんめえから、酒でも呑んでさっさと寝っけ……」

囲炉裏の火に温ったまりながらのんびりしとったところに、ふと誰かがドンドンと玄関の戸を叩く音が聞こえてくる。

「誰だぁ、こんな吹雪ん中……」

恐る恐る戸を開けてみると、そこには真っ白な着物に身を包んだ若い娘さんがおったそうな。

「道に迷ってしまいました……どうか今夜一晩、ここに泊めていただけないでしょうか……」

ごうごうと吹雪く中にぽつりとか細く立っとる娘さんが、どう見たって異様でならんかった。 男の足でもままならない山の中、しかもこの猛烈な吹雪の中を、こんな娘さんがたった一人で歩いて登って来たというのか。

なるほど、これはキツネかタヌキが化けて出たに違いない。

「あー、今日は誰も来ないと思ったから何の支度もないんですわ……ただ泊めてあげるだけならできっけども、里まで下りてみられた方が良いんじゃないですけ?」

「いえ、もうとても歩くことなどできません……ご迷惑とは思いますが、ただ泊めてくださるだけで十分ですので、どうか一晩だけ……」

あんまりにも哀れを誘ってくるもんで、政右衛門はとうとう断りきれなくなって、娘さんをうちに入れてやることにしたんだと。

客間へ通すと間もなく、休んだようで静かになった。でもその静けさがかえって不気味にも思えたそうな。

「あれがキツネかタヌキの化け物だったら何されっか……正体見せたらすぐにでも追い出してやんねぇと……」

そんなこんなでぐるぐると考えを巡らしていると、ばっちりと目が覚めてしまう。囲炉裏の火を前にどっかりと腰を下ろしたまま、政右衛門はその夜とうとう一睡もすることができなかったんだと。

まだ日も登らない早い時間、すっかり支度を整えた娘さんが奥から姿を現した。

「昨夜はありがとうございました。あいにく持ち合わせがありませんが、どうかこれをお納めください……」

そう言って差し出したのは、彼女が髪に挿していた氷のように透き通る髪飾り。それはもう見たこともない不思議な色で、こりゃあ売ればさぞ高値が付くに違いない、なんて思ったんだそうな。

外はすっかり吹雪も収まり、空は白ずみ始めとった。

「それでは……」

まだ青々と暗い雪の中を、娘さんはいずこともなく去っていった。

「良かった良かった。あれはキツネやタヌキの化け物じゃなかったんだな。」

長い夜がようやく終わって、ほっと胸を撫で下ろす。急に疲れがどっと出て、うんと背伸びをしながら大あくび。

「あーあ、今日は良い天気になりそうだなぁ」

夜明け空の向こうには、お天道様の光が輝き始めとった。

「それにしても今日は儲かったな。あの髪飾りは一体いくらくらいするもんなんだろうなぁ」

娘さんが置いてったあの不思議な髪飾りをもう一度よく見てみたくて、手に取って日の光にかざしてみた。 するとそれは見る間もないまま突然、キラキラと白い粉雪のようになって舞い上がり、そして消えてしまったんだそうな。

それから何日か経って、久々に宿の主人が様子を見に戻ってきた。 政右衛門は堰を切ったようにあの夜の出来事を語らずにはおれんかった。

しばらく黙って聞いとった主人だが、やがて神妙な面持ちでこう言ったんだと。

「そりゃあ……おそらく雪女というやつだろう。もしそのとき囲炉裏の火を消して寝てしまっていたら、お前さん今頃は……」

はじめは冗談かと思って聞いとった政右衛門だったが、主人の物言いがあんまりにも真剣なもんで、思わず全身から冷や汗が噴き出してきたんだと。

「キツネやタヌキの化け物の方がまだマシだったってか……」

この噂は間もなく近隣の村々に響き渡り、とうとうこの山にも雪女が出たって、みんなを震え上がらせたんだそうな。

……

翼舞う ゆきの門出に 降る涙

幾の想い夜 とくこともなし

……

それはまさかの急な猛吹雪。 気付けば仲間の姿も見失い、僕は一人になっていた。

「あれは、山小屋か……?」

数メートル先までしか見えない真っ白な視界の中、運よく見つけられた小屋らしきもの。 吹雪を掻き分けるように歩を進め、どうにかそこに逃げ込むことができた。

中は真っ暗だったが、とにかく急いで扉を閉める。そして息も絶え絶えに、すぐにスマホを取り出す。

しかし電波の表示は圏外。 薄々嫌な予感はしていたものの、電話もLINEも繋がることはなかった。

「大丈夫、きっと何とかなる……」

幸運にもとりあえず吹雪だけは避けられたのだ。 ここは一旦落ち着かねば。

バックパックから懐中電灯を取り出し、小屋の中を照らしてみる。 広さは六畳間ほどとやや広め。山仕事か何かで使っている資材置き場といったところだろうか。 壁にはスコップやら何やらが整然と掛けられ、奥に炭俵のようなものが大量に積まれていた。

燃料があったことに思わず歓喜してしまったのだが、しかし肝心の火を熾す道具がないことにすぐに気付く。 装備品の中に何かしら用意しておくべきだったなどと後悔しても、今更もう遅い。

次善の策としては、とにかく少しでも体温を逃がさないことだろうか。 サバイバル術なんて何一つ心得のない初心者だが、とりあえず小屋の真ん中に炭俵を積んで防壁みたいなものを作り、その中で小さくうずくまってみた。 あまり意味がある感じはしなかったが、気休め程度でもきっとやらないよりはマシだろう。

山の天気は変わりやすい。突然の吹雪なら、逆にすぐに収まる可能性だってある。 こんなお粗末な対策しか取れなくても、所詮はその場しのぎだ。

大丈夫、何とかなる。

……

そうやってどのくらいじっとしていただろう。 いよいよ体温が下がりすぎてきたのか、寒さを通り越して頭もぼーっとしてくる。 頼みの綱だった懐中電灯の電池も切れ、そこにあったわずかな温もりも光とともに消え失せた。

外の吹雪は勢いを増すばかりでまったく収まる気配もない。 途中、少しでもカロリーを補給しようとシリアルバーを取り出してみるも、すでにカチカチに凍ってとても歯が立たなかった。 望みをかけて改めてスマホも見てみるも、やはり圏外。 勘違いだったかもしれないという微かな希望も呆気なく絶たれた。

もはや奇跡的に見つけられて救助でもされない限り、本当にここで人生が終わる。 人生が終わる? いや、あり得ない! あり得ない……

……眠い。 まずい。

寝たら死ぬなんて、映画か何かのセリフじゃあるまいし。 冗談じゃない……冗談じゃ……

ギィィー……

突然、小屋の扉が開く音が聞こえた。

幻聴なんかじゃない。 僕は最後の気力をふり絞り、伏せた顔を上げる。

もはや視界は霞み、ぼんやりとしか映らない。 しかし確かに扉は開いていて、吹き込む吹雪とともに真っ白な人影のようなものがこちらに近づいてくる様子が辛うじて認識できた。

助かった…… いや、あの世からのお迎えか?

その瞬間、変に安心したのがまずかったのか、ふっと意識が途切れてしまった。

……

一面に咲く桜の中、懐かしいみんなの笑い声。

「だぁめ!この卵焼きは私のー!」 「ゆき姉、ずるい!」

今日は大好きなじいちゃんに連れられて、村のみんなでお花見。 僕とゆき姉はまたいつもの喧嘩。

「はる坊こそ、私の分の里芋食べちゃったじゃない!」 「だってゆき姉、ぜんぜん食べないんだもん!」

喧嘩するほど仲が良いだなんて、村の子供たちにもよくからかわれたっけな。

あの頃は子供同士で温泉に入ったり、春になればご神木の下でお花見したり……本当に本当に幸せだったのに。

そんな楽しげな風景が、一瞬にして真っ白な光に包まれて消えていく。

寒い。

これが死ぬっていうことか。

……

「ゆき姉……」

夢なのか現実なのかわからなかった。 生きてるのか死んでるのかすらも。

体が重い。 まるで全身が強力な磁石か何かで地面に吸い寄せられているような感覚だった。

僕はどうなってしまったのだろう。

薄ぼんやりとした意識の向こうに見える面影。 誰かが心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。

ダメだ、声が出ない。

再び意識が遠のいた。

……

目が覚めると、天井が見えた。 一面の板張りに、四角い照明。

灯りは点いていないが、部屋は十分に明るい。 丸い障子窓から差す自然光が、室内をほんのりと照らし出していた。

何だかほっとする景色だ。

しかしそんなささやかな癒やしなど、この鉛のように沈んだ気だるさによって完全に帳消しにされてしまうのだった。 もはや自分の体とは思えないくらいの、もったりとした倦怠感が全身を覆う。

どうしてこんなことになっているのだろう。 長い夢を見ていたようで頭の中が混乱気味だが、とにかく落ち着いて記憶の糸を辿ってみる。

程なくして脳裏に蘇るのは、あの地獄のような吹雪の遭難劇。 そう、あれは寒くて暗い小屋の中……いよいよ終わりだと思った瞬間、突然扉が開いて……

……そうか。 僕は助かったのか。

最後に見たあの白い人影。 どうやら間一髪、救助隊が間に合ったということらしい。

半開きの障子窓の外では、今も雪がしんしんと降り続いている。

こうして温かい布団にくるまっていると、まるであんな状況に陥ったこと自体が嘘だったように思えてくる。 どんなに危機的状況に陥ろうとも、脱してさえしまえば単なる過去の悪夢に過ぎない。 ぐずぐずと引きずる意味なんてどこにもない。せいぜいあとで酒飲み話にでもできれば十分だ。

半ば悟ったかのような穏やかな心持で、僕は目を閉じる。

……静かだ。 ずっと耳に張り付いて離れなかった風の音はもう聞こえない。 普段は信仰などというものとは無縁の僕でさえ、このときばかりは神に感謝せずにはいられなかった。

一呼吸おいて再び目を開けると、いつの間にそこにいたのか、枕元に着物姿の少年が佇んでいた。

まだ目がおかしいのだろうか。僕は思わず寝ぼけ眼をごしごしと擦る。

いや、錯覚なんかじゃない。 確かにその少年は、薄っすらと向こう側が透けて見えている。

あの世へのお迎えならお断りだ。 つい今しがた神に感謝したばかりだというのに。 僕はまるで金縛りにあったように動けないまま、その見下ろす視線から目が離せなくなってしまった。

そうしてどのくらいじっと見つめあっていたか、不意に妙な違和感を覚え始める。 その面影が、どことなく懐かしく感じられるのだ。

昔どこかで会ったことがあるだろうか? 誰だろう?……わからない。

やがて少年はゆっくりと視線を上げながら、どこかを指さす。 そしてそのままぼんやりと影が薄くなっていったかと思うと、やがて完全に見えなくなってしまった。

金縛りが解けた僕は、思わず体調のことも忘れて布団から起き上がる。

「何だったんだ今のは……」

少年が指さしていた方向を見てみるが、普通に部屋の壁があるだけ。そこに気になるものは何もない。 でもあれは、あの表情は……絶対に僕に何かを伝えようとしていた。

心霊現象なんて初めてお目にかかるが、どう考えていいものかわからない。 ここに何もないということはつまり、この壁の向こうにある何かを指していた……? 隣の部屋か……?

ため息とも深呼吸ともつかない短い息を一つついて、僕は自分に言い聞かせる。 とりあえず一旦落ち着こう。話はそれからだ。

心霊だの呪われているだの言う前に、だいたいここはどう見ても病院じゃない。 それがまずどう考えてもおかしい。

救助隊なら病院に搬送するのが当たり前だ。 何かイレギュラーがあったにしても、せめて救急ヘリか何かの中だというのならまだ理解できる。 和室で寝ていたという状況にだけは、どう考えても繋がらない。

ということは、あのとき僕を見つけたのは救助隊じゃなく……

急に嫌な予感がしてくる。

あんな吹雪の中で突然資材置き場に現れたナニカ。 いくらまともに考えようと思っても、もはやオカルト的なものくらいしか浮かんでこない。 そしてそのナニカの手によって、僕はこの幽霊屋敷に閉じ込められた……

そう考えていくと、またこの和室というシチュエーションが妙に不気味だ。 明るいし綺麗だし、一見すると怖い感じなんてまったくしないはずなのに、そういうところがまた逆に恐ろしく感じてしまうのだからタチが悪い。

自分で自分の首を絞めているだけのようにも思えるが、とにもかくにもこの目で確認してみるしかない。 まずはこの部屋の外だ。 あの襖の先がどうなっているのか。

向こう側を覗き見るように、恐る恐る襖を開けてみる。

するとそこは、左右に真っ直ぐ伸びる廊下。 床には真っ赤な毛氈が敷かれ、ほのかにお香のような甘い香りが漂う。

凛とした和空間で普通なら好感が持てるところだが、残念ながら今の僕にはそういう余裕がない。

そろりそろりと辺りを見回していると、ふとあるものが目に飛び込む。 遠目ながらにはっきりとわかる、紺色の生地に白で書かれた「湯」の文字。

「……そういうことか」

品のある和空間に湯暖簾とくれば、もう間違いないだろう。 要するにここは、いわゆる「呪われた旅館」というやつだ。

一番辿り着きたくない結論だった。 正直こんなタイミングで思い出したくもなかったが、しかし嫌が応にも出発前に仲間から聞かされた「ある話」が脳裏を過ってしまう。

……

その昔ある山の中に、とある小さな集落があった。 そこは豊かに湧き出る名湯が評判でいつでも大勢の湯治客が訪れていて、およそ山奥の村とは思えないほどの盛況ぶりを見せていたそうな。 村の中心には古来より湯の神を祀る社が鎮座し、そこにはある高名な神主が仕えていたという。 しかしあるときから彼は裏で邪のものと通じ私欲を貪るようになり、その堕落ぶりからやがて神の怒りに触れてしまう。 異変に気付いた村人は皆一斉に逃げ惑ったのだったが、その激しい祟りはか弱い女子供にまで容赦なく降り掛かり、とうとう誰一人として助かることはなかったんだそうな。 そんな村人たちの無念は今も癒えることなく宙を漂い、村があったとされる場所には密かに今も「泊まってはいけない呪われた温泉宿」が存在しているという。

……そんな実しやかな怪談話。 せっかくのトレッキングデビューに単なる初心者向けコースじゃつまらないからと、今回はそんな曰くつきの場所をわざわざセッティングしてくれていたらしい。

しかしあのときは所詮ネット界隈のネタだろうとみんなして笑い飛ばしていたというのに、まさかこんな形で自分の身に降り掛かることになろうとは。 思えばあの突然の吹雪に見舞われたところからすでに、おかしな予兆は始まっていたのかもしれない。

だがそうとわかったからには、とにかくこんなところに長居は無用だ。 さっさと然るべきところに連絡して、今度こそちゃんと救助隊を寄越してもらわなければ。

「あの……」

「……ッ!?」

背後から急に声がして、思わず声にならない悲鳴が漏れる。

さすがにこのタイミングでの怪異は勘弁してほしい。 臆するように首を竦めたまま、僕はゆっくりと振り返る。

目の前にいたのは、真っ白な着物に身を包んだ品のいい和装女子。 一見幽霊のようにも見える格好で紛らわしいものの、今度は半透明なんかじゃない。 ここへ来て正真正銘、ようやく真っ当な人間に会えたようだ。

いや、まだ気を許すには早いかもしれないが。

「まだご無理をなされない方が……」

「……?」

一瞬混乱する。 ご無理?……ご無理って一体何を……?

「三日も眠られていたんです。まだお身体がよろしくないのではと……」

「……」

体のことなんてすっかり忘れていた。 それくらい、今は気持ちの方が切羽詰まっている。

しかしなるほど、あれから三日も寝たきりだったわけか。 どうりで全身が異常にダルかったわけだ。 でもだったらなおのこと、今すぐにでもちゃんとした病院に掛からなければならないだろう。

とにかく助けを呼ばなければ。そのために、まずこの場所がどこなのかを聞かなければ。

「……あの、すみませんが……」

「はい」

「助けてもらっておいてこんなこと言うのも心苦しいんですが、やっぱりちゃんと病院で診てもらおうと思うんです」

「……はい」

「それで、まだ体調も優れないのでこれから救急を依頼しようかと思うんですが、今いるこの場所をどう伝えたらいいのかと……」

「……それは……」

ぐきゅるぅ~……

「……」

肝心なところで話の腰を折るように、僕の腹が凄い音を立てて鳴り響く。

「……あ、お腹……空かれてますよね……」

「……い、いえ大丈夫です……それよりも……」

照れ隠しでも何でもなく、腹が減っている実感などまったくなかった。

しかしよく考えれば、点滴も何もない状況で本当に三日間も眠っていたのだとしたら、せめて水分くらいは入れないとまずいような気もしてくる。

「今、何か温かいものでもご用意しまので……お部屋でお待ちになっていてくださいね」

そう言い残して、彼女はパタパタとどこかへ行ってしまった。

……

とりあえず一旦部屋に戻って、座椅子に腰を下ろす。

とにかく現在地さえわかれば、例えば救助隊を呼ぶなり、何かしらできる行動があるはず。 そう思ってスマホを手に取ってみるのだが、しかしあの山小屋のときと同様、電波表示は圏外になっていた。

地図アプリを開いてみても、どこかの山中というざっくりとした現在地しかわからない。 地図情報が読み込めないからか、現在地の名称はおろか、建物があることすら表示できないありさまだ。

しかしそんな役立たずなスマホでも、一つだけ確かな事実が確認できた。 どうやら三日間眠っていたというのは本当だったらしい。

結局スマホを確認したところで無駄に不安を煽られただけだった。 こんなことならむしろ見ないでおいた方がよかったのかもしれない。

「お待たせいたしました、お食事をお持ちしました」

「は、はーい」

スマホを見ている最中に不意に襖越しから声がして、咄嗟に生返事を返してしまう。 すると襖が音もなく開く。

「粗末なものですが、お体になるべく障らないものをと思って、おかゆをお持ちしました」

土鍋のようなものが乗ったお膳を、静かに僕の目の前に置く。 蓋の穴からはほんのりと細く湯気が立ち上っている。

「お口に合いますかどうか……」

おもむろに土鍋の蓋が取られる。 もうもうと煙る湯気の中から現れたのは、真っ白で艶のある、ふっくらと仕上がった白粥。

木べらで丁寧に茶碗によそうと、僕に差し出す。

「熱いですから気を付けてくださいね」

三日ぶりの食事。いや、正確にはもっとだ。 これが病院であればもしかするとまだ食事は取れず、点滴を打って過ごしているような段階なのかもしれない。 しかし現にこうして食べ物を目の当たりにすれば食欲はちゃんと湧く。今これを我慢する理由なんてどこにもない。

さっそく軽くふーふーして、やけど覚悟で一気に頬張る。

……美味い。 美味すぎる。

ただのおかゆがこんなにも美味いと思ったのは初めてだ。 箸休めの梅干しも甘味があってたまらなく美味。 最初の一杯などあっという間に平らげて、二杯目以降はもはや手盛りの勢いだ。 見れば土鍋の傍らにはねずみ色の温泉卵も添えられている。 今度はよそったおかゆの上にそれを割って、そしてまたそれらを一気に掻き込む箸が止まらない。

「実はこれ、温泉で炊いたおかゆなんです……薬膳としても体に良いんですよ」

口いっぱいに頬張っているので返事もできないが、体に良いと聞けばますます美味い。 僕はマナーもへったくれもないままただただがっつくように食べ進め、気付けばあっという間に完食してしまっていた。

「いやぁ~……美味しかったです……ごちそうさまでした」

普段そんなことをする習慣もないのだが、このときばかりは自然と両の手を合わせてしまった。

「お口に合いましたようで……何よりです」

心底嬉しそうな笑顔だった。 その表情からは、純粋に僕の快復を喜んでくれている気持ちがひしひしと伝わってくる。

しかしだからこそ、もうこれ以上の迷惑はかけられない。

「……ご馳走になって早々で申し訳ないんですが……やっぱりちゃんと病院に行こうと思うんです」

「……え?……あ、はい……」

「自力では無理そうなので救助隊を呼ぼうかと思うんですが、まずはその……ここは一体どこなんですか?」

「あ、えと……このあたりは神里村(かむりむら)と申します」

「……カムリ村……?」

そんな名前はまったく聞いたことがない。 入山の前に仲間と確認した地図にも、そんな地名はなかったはず。

一体僕はどこに迷い込んでしまったというんだ?

……そういえば…… 今になってふと思い出す。

今回のトレッキングツアーでは、初心者の僕のためにと、わざわざ初心者向けの易しいコースを見繕ってもらっていた。 しかし出発前になって、仲間の一人がしたり顔で突然妙な話を聞かせてきたのだ。

……

その昔このあたりには、とある小さな集落があったという。 名湯が豊かに湧き出でるその村は湯治客も多数訪れ、およそ山奥の秘湯とは思えないほどの賑わいぶりを見せていた。 何より村には古来から「湯の神を祭る厚い信仰」があり、湯の効能と相まってその神力にこそ高い治癒力があると、かなりの評判を轟かせていたらしい。 村には湯の神を祀る大きな神社があり、そこにはある高名な神主が仕えていた。 しかしあるときからその神主が裏で邪のものと通じ私腹を肥やすようになり、いよいよ神の怒りに触れたその村は、ついに激しい祟りに遭うことになってしまう。 異変に気付いた村人は皆一斉に逃げ惑ったのだったが、最後はとうとう女子供に至るまで祟りは容赦なく降り掛かり、村人は一人残らず血の海に沈むことになったのだとか。 そんな村人たちの無念は今も癒えることなく宙を漂い、村があったとされる場所には密かに今も「泊まってはいけない呪われた温泉宿」が存在している。

……などという、実しやかな噂話。

おそらくネット界隈で囁かれている類の話なんだろうが、ただの初心者向けコースじゃつまらないからという、ある種サプライズ的な計らいだったらしい。 あのときは単なるくだらないオマケ要素だと笑って聞き流していたけど……

「……それでその……ここはその神里村に湧く神里温泉の一軒宿で、『湯庵 雪月花(ゆあん せつげっか)』と申します」

うん、やっぱり旅館だ。 すでに八割方感づいてはいたけど……改めてそれが確定すると、どうしてもその噂話とやらの信憑性が深まってきてしまう。

せっかくよく行き届いた素敵な宿という雰囲気なのに、なんだか勿体ない。 さっきの謎の白モヤの件もあるし……それこそお祓いでも何でもちゃんとしてもらえば良いのに。

とにかくいずれにしろ、これでようやく現在地がわかった。 早速連絡しよう。

「実はここ、電波が圏外で携帯が繋がらないみたいなんで……すみませんが、宿の電話をお借りできないでしょうか……」

「……電話……」

「あ、このお部屋にも……ありましたっけ……内線電話とか……」

言いながら部屋の中を見回してみたのだが、しかし電話らしいものは見当たらない。

「いえ、実は……その……」

「……?」

「ないんです、電話……この旅館には……繋がってないんです……」

「……」

……なるほど。 確かに山小屋的な旅館では、電話線が来てないところもあるとは聞いたことがある。 しかし山奥ではあってもここはこれだけ立派な佇まいの温泉旅館。 それなのに電話がない……やっぱりかなり不自然だ。

「……その……すみません……」

そんなに申し訳なさそうにされると逆に心が痛むが……とにかくないものはないのだからどうしようもない。 しかし……とは言うものの、これはかなり困ったことになった。

「例えば手紙を出せるところなんていうのも……当然ないですよね?」

「……はい……」

普通に山で遭難したのだから、音信不通になることもある意味想定内というか、やむを得ない場合もあるだろう。 しかし外部への連絡が一切取れないとなると……すでに下山した仲間が警察に連絡しているかもしれないが、このままここで大人しく救助隊の助けが来るのを待つしかないのだろうか。

いや、考えたらその仲間だって無事に下山できたのかどうかわからない。 やはりどうにか自力で帰ることを考えるしかないかもしれないが……何しろ僕はまだ山歩きの初心者だ。 たとえ体が順調に快復できたとしても、こんな雪深い山の中をろくな装備もなく無理やり歩こうものなら、それこそ再度遭難するか、あるいは今度こそ最悪事故に遭って……

しかしこのご時世に、こんな立派な温泉旅館にいながらまともにSOSも発信できないとは……何だか情けなくもなってくる。 当初予定していたコースを大幅に外れたにしても、所詮は徒歩での移動なんだし、少なくとも大体の現在地くらいは予測できると思うのだが…… いや、そんな考えも結局のところ初心者の浅知恵なのかもしれない。

「それでその……一応私、この旅館を預かってる者でして……白咲 雪音(しろさき ゆきね)と申します」

「え、預かって……って、女将さんだったんですか?」

「いえ、女将なんて言えるほどのことは何も……みんなに助けてもらいながらどうにかやっていってるだけなんですが……」

露骨に驚くのは失礼だったかもしれない。しかし……

確かにやけにきちんとした身なりをしているとは思っていた。 でも僕とそんなに歳も変わらないくらいに見えるこの人が、まさかこの立派な旅館の女将を務めているとは。 ……いや、そもそもこの旅館にはどんな裏があるかもわからない。驚くのはまだちょっと早かったかもしれない。

「あ、すみません、そういえばここに来てから宿帳も書いていないので、一応自己紹介しときますと……僕は乙鬼 葉流(おとぎ はる)と言います」

「……!」

そう、そんなふうにリアクションに困られることはしょっちゅうだ。 変な名前だもんな、どう考えても。

「……そう……ですか……」

「すいません、変な名前なんで……わかりにくかったら今からでも宿帳を……」

「あ……いえ、それは……大丈夫です……」

「そ、そうですか?」

「はい……」

まあ、良いって言うのなら良いか。 書いた方がわかりやすいとは思うけど……

「その……こんな宿で大したおかまいも叶いませんが……どうかご無理をなさらずごゆるりと休まれていってくださいね」

「あ、はい……ありがとうございます」

彼女は食べ終わったお膳を下げつつ、部屋を出ると静かに襖を閉めた。

ふと見ると、外はすでに薄暗い。 久々の満腹感に、まるで睡眠薬でも飲んだかのようなとてつもない眠気が襲ってくる。 まだ病み上がりとさえ言えない病中の体……このまま座椅子で眠りこけてしまったら間違いなく体に毒だ。 とにかく今は体を快復させることが最優先なのだから、少しくらい時間が早くとも眠くなったのなら眠ってしまうのが得策だろう。

そのままふらふらと奥の間の布団に戻ると、僕の意識は暗闇の中ですぐに途切れてしまうのだった。

雪はまだ、音もなく降り続いていた。

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