雪月花 第二十八夜 嘘
村は、変わらなかった。
朝。 鍋の音。 湯気。
その日、隣村から流れ着いた、母と子。
事情は、詳しくは、聞かれない。
「ここ、空いてるから」
それで、決まる。
誰かが、拒むこともなく。
誰かが、強く主張することもなく。
ただ、受け入れられていた。
ゆき姉は、少し離れたところで、それを見ていた。
この輪に、自分もいる。
ずっと、そう思ってきた。
なのに。
胸の奥で、小さく、音がした。
笄の、冷たさ。
「普通に育てて――」
あの言葉が、遅れて、浮かび上がる。
普通。
ここにいる人たちと、同じように。
笑って。 年を取って。
――隠さずに。
それが、できなかったら。
できていないと、知られたら。
今までの、全部が。
ひっくり返る気がした。
夕方。
水場。
大根を刻む。 包丁が、少し、ずれる。
指先に、走る感触。
――でも。
赤は、出なかった。
一瞬、動きが止まる。
その背後で、気配。
はる坊が、立っていた。
目が、指先に、落ちる。
ほんの、一拍。
はる坊は、何も言わず。
視線を、外し。
「火、強いよ」
それだけ言って、向こうを向いた。
ゆき姉は、包丁を、置いた。
胸が、少し、あたたかくなる。
それが、怖かった。
この人は、見た。
でも、聞かなかった。
聞けるのに、聞かない距離に、来てしまった。
「ゆき姉」
名前を、呼ばれる。
それだけで、胸が、詰まる。
この呼ばれ方が、もし。
嘘の上に、乗っているものだったら。
自分は、何を、返してきたんだろう。
笑った顔も。 撫でた頭も。
全部。
――騙していたことに、なってしまう。
噂話が、よぎる。
雪女。
確かめたわけじゃない。
でも、否定も、できない。
はる坊の背中が、そこに、ある。
優しいまま。
何も、聞かないまま。
それが、一番、逃げ場がなかった。
夜。
部屋で、ひとり。
笄を、外す。
「普通に――」
なろうとした。
なっていると、信じたかった。
でも。
もし、そうでなかったら。
ここにいること自体が、間違いになる。
朝になれば、きっと。
何事もなかったように、声をかけられる。
役割も、居場所も、用意されている。
だからこそ。
その前に。
全部が、壊れる前に。
自分が、壊してしまう前に。
消えるしか、なかった。
荷物は、少しだけ。
笄を、握る。
理由は、言葉にならない。
誰にも、うまく、話せない。
だから。
――行く。
春になる前の、まだ、冷たい夜だった。
――第二十八夜・了
