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雪月花 第一夜 雪語り

――ここでのことは、決して人に話してはならぬ。 もし誰かに話してしまったら、そのときは……。

ゆき咲けど
月ほの灯す
霞み花
幾の想い夜
とくこともなし

この世には、忌み地というものがある。 忘れてはならぬ記憶がある。

これは、そんな旧い記憶の傍らに、人知れず咲いた唄。 雪解けのうつろいとともに、忘れ消えゆく―― 小さな、小さな物語。

「まあ狭いところですが、とにかくお上がんなさい」

ちゃぶ台の上に湯気の立つ湯呑みが置かれ、柱時計が低く時を刻んでいた。 古いラジオは沈黙したまま、障子越しの灯りだけが部屋を柔らかく満たしている。

語り部は膝の上の猫の喉をゆっくりと撫でながら、こちらを見て笑った。

「粗末なものしかありませんが、茶でも飲みながら……ゆっくりとお話しするとしましょう」

猫は目を細め、喉を鳴らす。 雪の夜に似合う、静かな居間だった。

「むかしの話です。このあたりには、派手な九尾狐の伝説がありましてね。あまりに有名すぎて、ほかの話はすっかり影に隠れてしまった」

そう前置きしてから、語り部は続けた。

「これは、ほとんど語られなくなった雪女の話です」


冬になると人が下りてしまう、山あいの湯の宿があった。 山は深く、雪は重く、風は人の足を容易に奪ったという。

その年も、雪が軒まで積もるころ、ひとりの男が番として残っていた。 名を、政右ヱ門と言った。

夕暮れ、戸口を少し開け、手早く雪を払い落としていた政右ヱ門は、ふと、気配を覚えて顔を上げた。

薄闇の中、戸の外に女が立っていた。 風にあおられた雪が視界を白く曇らせるなかで、日が落ちきらぬ山の端の光が、雪に濡れた衣の白さだけを、かろうじて浮かび上がらせている。

思わず、戸を閉めかけた。

雪はすでに荒れ始めていた。 雪に慣れた者でさえ歩くのが難しい晩に、どうしてここまで来られたのか。

——この山で、人に化けるものがないとは言い切れない。

不思議よりも先に、胸の奥に、ひやりとしたものが落ちたという。

女は静かに頭を下げた。

「連れとはぐれ、道に迷いました。どうか一晩、泊めていただけませんか」

食べるものもなく、もてなす術もないと告げると、女は首を横に振った。

「何もなくてかまいません。夜が深く、もう道がわからないのです」

その声は弱く、けれど凍えてはいなかった。

憐れに思った政右ヱ門は、女を中へ通した。 寒かろうと囲炉裏を指し、火に当たるよう勧めると、女は小さく首を振り、静かに微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、どうかお気遣いなく」

そう言って一礼すると、奥の客間へと静かに姿を消した。

吹雪の気配は戸の向こうに遠のき、宿の中には囲炉裏の火の音と静寂だけが残っていた。 政右ヱ門は火に薪をくべながら、とうとう夜通し目を閉じなかったという。

やがて夜の気配が薄れ始めた頃――

女は早く起き、深く礼をした。

「昨夜はありがとうございました。お代をお支払いしたいのですが、持ち合わせがありません。代わりに、これを」

そう言って、女は髪から一本の笄を抜いた。 冷たい光をたたえた、銀の笄だった。

政右ヱ門が受け取ると、女は戸の外へ一歩踏み出し―― 振り返ることもなく、雪と闇の中へ溶けるように消えていった。

やがて夜が明け、吹雪が止み、山の端から朝日が差し込み始めていた。

政右ヱ門は戸を開け、外へ出た。

掌の中の重みが、ふと気になった。

見下ろした瞬間、銀の笄は朝の光を受け、あわ雪のように―― 音もなく、溶けるように消えていった。

まるで、 ――私のことは、忘れてください。 そう言っているかのように。

胸に残っていた面影が、ほどけていく。

いつのまにか、あの女の顔さえ、思い出せなくなっていた。


春になり、宿に人が戻った。

政右ヱ門がこの話をすると、年寄りは言ったという。

「それは雪おんなだ。火を消さずにいて助かったな」

政右ヱ門は、ただ黙ってうなずいた。


「……そんな話です」

語り部は湯呑みを置き、膝の猫を抱き直した。 猫は尻尾をひと振りし、小さく欠伸をする。

「今もね、この土地には、語られぬまま忘れられた話が眠っている。それで、いいとされた話が」

障子の外で、風が鳴った。

そして、物語はゆっくりと、別の夜へと移っていく。

雪の積もる、音のない田舎道。 名もないバス停へ。

――第一夜・了

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