雪月花 第二十夜 湯汲み
はる坊の熱は、下がりきらないままだった。
咳は、ひと晩に何度も。 胸の奥で、かすれた音がする。
眠っているあいだも、その音だけが、途切れずに聞こえる。
昼間。
湯屋の裏で、桶を洗っているときだった。
旅の客が、二人。
声は低く、噂話の調子で。
「飲めるんだってよ」 「この温泉が?」 「そうそう。浸かるより効くって噂だぜ」 「……でもにごり湯だしな。不味いんじゃないの?」 「そりゃ、そうだろうな」
笑い声。
桶の中で、水が揺れた。
飲める。
浸かるより効く。
その言葉が、耳に残ったまま、離れなかった。
はる坊は、浸かれない。 だったら……
でも――
本当にいいのか、と。
「お粥に……少しだけなら」
夜。
囲炉裏の火を、落とす。
鍋を洗い、蓋を伏せる。
はる坊は、眠っていた。
浅い呼吸。
それでも、今は静か。
「……行ってくるね」
返事のない相手に、小さく言って――
ゆき姉は、盥を手に取った。
外は、月が冴えていた。
雪は、まだ。
ただ、空気が硬い。
月明かりを頼りに、湯屋へ。
夜は、湯の音だけが残る。
湯出口は、昼よりも熱く、白く見えた。
湯気が、月を隠す。
湯船の縁に上る。
盥を、そっと伸ばす。
身を、預けすぎれば――
腕が、思ったより遠い。
「……っ」
湯が、跳ねた。
熱が、肌をかすめる。
落ちるな。
落ちたら――
歯を食いしばり、もう一度。
盥の縁に、湯が当たる。
少し。
ほんの、少しだけ。
盥の底に、白い湯が溜まった。
それで、いい。
それ以上は、欲張らない。
胸に抱いて、戻る。
湯気が、顔に当たる。
朝まで、冷めませんように。
はる坊が、嫌な顔をしませんように。
家に戻ると、盥を囲炉裏のそばに置いた。
布をかけ、そっと。
鍋を、もう一度見る。
明日の朝。
少しだけ。
少しずつ。
それで、だめなら――
考えるのは、やめた。
夜は、まだ深かった。
湯の音だけが、遠くで、鳴っていた。
――第二十夜・了
