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雪月花 第二十六夜 流れ歌

泊り客のいない、静かな朝。

女将さんの部屋は、光が、いちばん早く入る。

兼ねてから、いつか、と話していた歌詠み。

今日は少しだけ、教えてもらえることになった。


障子の向こう、雪解けの音。

その日は、帳場も、まだ、開いていなかった。

「今日は、これを」

女将さんは、短冊を一枚、差し出した。

白い紙に、まだ、何も書かれていない。


「歌はね、うまく詠まなくていいの」

そう言って、硯に、ゆっくり水を落とす。

「気持ちが、先に立つと、言葉は、あとから来るの」


ゆき姉は、膝を揃えて、その手元を見ていた。

墨の匂い。 紙の白さ。

どれも、少し、遠い。


「……難しいです」 「そうね」

女将さんは、否定もしない。

「でも、分からないまま、置いておくだけで、いいのよ」


一首、女将さんが詠む。

意味は、はっきりしない。

けれど、声にすると、胸の奥が、静かになる。


「不思議ですね」 「歌は、そういうもの」


昼になり、宿に、人の気配が戻る。

昼下がり、帳場の近く。

旅の男が、湯冷めした顔で、茶をすすっていた。

「この辺り、雪女が出るって、聞きましたよ」

笑いながら、そう言う。

「ほら例の、宿の番をしてたら訪ねてきたって……この近くなんでしょ?」

女将さんは、穏やかに、受け流す。

「昔話でございますね」

ふーん、と口を尖らす男。

「でも、ほんとにいるのなら、見てみたいなぁ」

軽い声。

それ以上、深まらない。

ゆき姉は、盆を持ったまま、少しだけ、足を止めた。

雪女。

その言葉が、胸の奥で、ころりと転がる。

怖くは、ない。

けれど、近くも、ない。


夜、部屋に戻る。

短冊は、白いまま。


書けなかった、わけではない。

書かなくて、よかった気も、していた。


障子の外、春の雪。

溶ける前に、触れたら、どうなるのだろう。


そんなことを、考えて、やめた。


歌は、まだ、言葉にならない。

噂も、まだ、自分のことではない。


それでも、何かが、静かに、近づいていた。


――第二十六夜・了

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