雪月花 第二十九夜 人知れず
朝。
湯気が、いつものように、立っていた。
鍋に、火が入る。
板の音。 湯の音。
それでも。
一つだけ、足りない。
「……まだ?」
誰かが、そう言った。
寝坊かしら、と、誰かが笑う。
少し、待つ。
来ない。
部屋を、覗く。
布団は、畳まれている。
「おかしいね」
声が、低くなる。
爺ちゃんに、知らせがいく。
帳面を閉じる。
「……探すか」
大ごとには、ならない。
でも、放っても、おけない。
数人が、手分けして、歩き出す。
はる坊は、その中に、いなかった。
けれど。
「ゆき姉!」
呼ぶ声が、裏道に、残る。
誰に言われたわけでもなく。
止められたわけでもなく。
ただ、誰もはる坊の名を呼ばなかっただけ――
だから、そうせずには、いられなかった。
山の方。
使われなくなった、古い道。
息が、白くなる。
何度も、名前を呼ぶ。
返事は、ない。
それでも。
足が、止まる。
そこに。
座り込んだ、影があった。
「……ゆき姉」
顔を上げる。
生きている。
それだけで、胸が、いっぱいになる。
言葉は、すぐには、出てこない。
「……帰ろ」
それだけ、言えた。
ゆき姉は、視線を、落としたまま。
うなずく。
立ち上がるとき、少し、ふらつく。
笄が、きらりと、光る。
後ろから、足音。
「……見つかった?」
姐さんが、息を切らして、立っていた。
はる坊の顔を、一度。
ゆき姉の顔を、一度。
「……じゃ、お願いね」
それだけ言って、踵を返す。
知らせに、行くのだろう。
二人で、歩き出す。
村へ。
朝は、もう、進んでいた。
――第二十九夜・了
