雪月花 第三十七夜 糸
辻から離れた、湯の裏手。
普段人気のないその場所に、妙な人だかりがあった。
仲居の主人は、その輪の中心にいた。
声は低く、抑えられている。 聞かせないようにしているのに、逆に「聞いてほしい」焦りが滲んでいた。
「……だから、念のためだ」 「誰が悪いって話じゃない」 「ただ、みんなを護るためなんだ」
村にいられなくなる―― そんな恐怖を煽る空気が、言葉の端々から伝わってくる。
湯気よりも重たい、不安の塊。
そこへ—— 不意に、爺ちゃんが現れる。
輪の外から、歩みを止める。
「皆を護る、か」
声は張らない。 しかし、不思議と湯音に負けなかった。
「いつから、この村は――人を選び、追い出す場所になった」
誰に向けたともつかない言葉。 けれど、主人の背がわずかに強張る。
爺ちゃんは、主人を見ない。
「ここは、湯治場だ」 「疵のある者、病を持つ者――みな癒しを求め、ここを目指す」 「人に言えぬ者は去れ、などと言うのなら——湯など、信心など、最初から、意味を持たぬ」
一瞬、空気が止まる。
「去れば、村は軽くなるのか?」 「違う。痩せるだけだ」
爺ちゃんは、ゆっくり息を吐いた。
「この村は、ずっと——そうしてきたはずだろう」
主人は、口を開いた。 だが言葉が、見つからない。
喉が鳴る。 何か言おうとして、息だけが漏れた。
「村のため」という言葉は、 もう爺ちゃんの手の中にあった。
「……余計なこと、言いやがって」
目を背けたまま、絞り出すような声。
怒りではなく、縋りだった。
爺ちゃんは、主人を見据える。
諭すような、優しい眼差し。
「余計なものか」 「……戻れるうちに、戻すだけだ」
それ以上、何も言わない。
輪は、いつの間にかほどけていた。
桜のほころび始めた、雪月花の裏――
その声は、ゆき姉にも届いていた。
胸の奥に、冷たいまま置かれていたものが、また少し、溶けた気がした。
――第三十七夜・了
