雪月花 第四十夜 花と月
村がまだ遠くに見える、山道。
疵の男は、足を止めた。
「俺は、ここで降りる」
薬売りが、眉をひそめる。
「あ?」 「用事ができた」
それだけ。
「……ふん、勝手にしろ!分け前はやらんぞ」
薬売りは、興味を失ったように言う。
「こんな村に何の未練があるのか知らんが、とにかく、ろくなところじゃない」
疵の男は、答えない。
ただ黙って、薬売りが背負っていた荷を解き――
預けていた刀を、手に取る。
鞘鳴りが、夜気に、小さく響いた。
少し前の、昼時。
境内は、久しぶりに賑わっていた。
酒の匂い。 笑い声。 弁当の蓋が開く音。
「今年は、いい桜だな」 「温泉粥も、効いたって話だ」
女将の周りには、人が集まる。 礼を言う者。 笑いかける者。
ゆき姉は、少し離れたところで、杯を運び、皿を下げる。
誰にも、気づかれず。 誰にも、呼ばれず。
それで、いいと思っていた。
祝いの席は、夜まで続いた。
そして――
笑い声も、酒の匂いも、風にほどけ、境内には、月だけが残る。
満月。 白い光。
散りきれなかった桜が、枝に、地に、影のように留まっている。
はる坊は、片付けの名残で、そこにいた。
ゆき姉も、同じだった。
言葉は、交わさない。
交わせない、というより、どちらも、どこから話せばいいのか、わからなかった。
安心が、あった。
居場所が、あった。
その中で―― 確かに、芽吹いてしまったものが、ある。
ゆき姉は、それに、気づいていた。
気づいてしまったから、どうしていいか、わからない。
このままでいいのか。 このままでは、だめなのか。
月明かりが、桜を透かす。
風が、ひとひら、ふたひら。
「ねえ……」
何かを伝えたくて、ゆき姉が、振り向きかける。
夜桜の光が、背に、肩に、まとわりつく。
服の気配が、そこだけ、消えている。
雪のような白と、花の影。
そして、その視線。
生きたいとも、消えたいとも、言わない目。
ただ――「いま、ここにいる」というだけの、危うい光。
はる坊は、それを――
ただ、そこに、咲いているだけの――
人ならざる、透明な、ゆき姉を――
見つけてしまった。
その瞬間、胸の奥で、真っ白な何かが――
音もなく、堕ちた。
――第四十夜・了
