雪月花 第四十一夜 変化
朝の板場は、いつもと同じ匂いがした。
湯気。 出汁。 濡れた木の床。
ゆき姉は、釜の前に立っている。
粥の火を、少しだけ、弱める。
――弱すぎる。
気づいて、また、少し戻す。
(……今日は)
理由は、わかっていた。
釜の向こう。 はる坊が、いる。
包丁の音が、不揃いだ。
一定だったはずの刻みが、わずかに、乱れる。
ゆき姉は、それを、見ないふりで見ていた。
(……落ち着かないのは、私のほうか)
鍋に、そっと、蓋を置く。
その仕草ひとつで、肩が、近づく。
近すぎた、と思ったのは、一拍、あと。
はる坊は、視線を、包丁から離せない。
離せないのに、意識だけが、勝手に引き寄せられる。
背中。 腕。 息が、ほんの少し、近い。
――近い。
「……それ」
ゆき姉が、言う。
声は、いつも通り。
はる坊は、びくりと、肩を揺らした。
「は、はいっ」
返事が、やけに、大きい。
ゆき姉は、気づいて、口を閉じる。
(……)
言葉を、選んでいる。
選んでいること自体が、もう、今までと違う。
「……火、見すぎ」
それだけ、言った。
はる坊は、頷く。
頷きすぎる。
「だ、大丈夫!です!」
大丈夫じゃない。
自分でも、わかっている。
目の端で、ゆき姉の指が、器に触れる。
白い指。 湯気。
それだけで、喉が、鳴る。
(……なんだ、これ)
意味は、わからない。
けれど、平静では、いられない。
ゆき姉は、器を、差し出す。
何も言わない。
ただ、「そこにある」というように。
はる坊は、一瞬、受け取るのを忘れる。
「……あ」
遅れて、手を伸ばす。
指が、触れそうになって、慌てて、引っ込める。
ゆき姉は、それを、見てしまった。
胸の奥で、何かが、ふっと、熱を持つ。
(……あ)
はじめて、はっきりと、わかる。
これは、安心ではない。
守る、でもない。
(……違う)
名をつけるには、まだ、怖い。
けれど―― 確かに、上がっている。
火が。
板場の隅。
姐さんは、その一部始終を、何となく、見守っていた。
何も、言わない。
ただ、口元だけ、緩む。
「……初々しいね」
独り言のように、ひとつ。
それ以上、踏み込まない。
踏み込めば、壊れると、知っているから。
湯気が、二人の間を、流れていく。
誰も、気づかないふりをして。
でも、もう―― 戻らない。
板場の裏手。
小さな換気窓の影に、疵の男。
身じろぎは、ない。 呼吸も、殺している。
音の鳴る物は、身に着けてはいない。
ただ、見るための目だけが、そこにあった。
――第四十一夜・了
