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雪月花 第四十二夜 鼓動

社の奥。

爺ちゃんは、一人、帳面に向かっていた。

足音。

顔を上げる前に、わかってしまう。

――重い。

人のものではあるが、人のものではない。

疵の男。

一礼もなく、口を開く。

「聞きたいことがある」

爺ちゃんは、目を細める。

「お前は……薬売りと一緒にいた男だな」 「たまたまだ。今は違う」

短い返答。

それだけで、十分だった。

爺ちゃんは、それ以上、過去を問わない。

「……何だ、聞きたいこととは」

疵の男は、視線を逸らさず、言った。

「あの宿にいる娘のことだ」

空気が、わずかに、張る。

「神域に、棲まう」 「血の匂いが、しない」

一拍。

「……あれは、人ではないな?」

爺ちゃんは、すぐには答えない。

帳面を、閉じる音だけが、小さく響く。

沈黙。

やがて、低い声。

「……何の話だ」

みしり、と、床が鳴った。

冷たい風が、一筋。

「この村の、一体誰を見て――」 「人ではない、などと……」

一拍。

「あの薬売りにでも、何か入れ知恵されたか」

爺ちゃんは、初めて、相手の顔を、正面から見る。

疵。 目。 呼吸。

――黒い。

やがて。

「……そうか」

疵の男は、それだけ言った。

見据えたような目。

そしてそれ以上、何も聞かず、背を向けた。

「邪魔をした」


男の去った後。

爺ちゃんは一人、奥歯を噛み締めた。


夜。

雪月花。

灯りは落とされ、宿は、静まり返っている。

ゆき姉は、布団の中で、目を閉じていた。

眠れない。

理由は、わかっている。

胸の奥で、一定の間隔で、何かが、打っている。

どく。 どく。

鼓動。

(……変だ)

安心はある。 居場所もある。

それなのに――

落ち着かない。

目を閉じると、浮かぶのは、昼の板場。

包丁の音。 視線を逸らす背中。

触れそうで、触れなかった距離。

(……私は)

名をつけたくない。

つけてしまえば、何かが、壊れる気がする。

それでも、鼓動は、止まらない。


同じ夜。

神社の庵。

はる坊は、仰向けのまま、天井を見ていた。

眠れない。

胸の奥が、ざわついている。

理由は、考えないようにしている。

考えれば、もっと、おかしくなる。

目を閉じると、浮かぶのは、月明かり。

白。 花の影。 あの目。

(……なんなんだ)

触れていない。 言葉も交わしていない。

それなのに――

体が、覚えている。

胸の奥で、同じ音。

どく。 どく。

鼓動。

はる坊は、布団の中で、拳を握る。

(……だめだ)

何が、だめなのかも、わからない。

ただ、このままでは、戻れない。

そんな予感だけが、確かだった。

同じ夜。

村の外れ。

疵の男は、月を見ていた。

鼓動は、乱れていない。

感情も、動いていない。

だが――

確信は、深まっている。

鞘鳴りが、その左手に、しかと握られた。


――第四十二夜・了

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