雪月花 第四十五夜 末路
倒れた爺ちゃんに、男が詰め寄る。
遠巻きに人の視線が刺さる、異様な静けさだった。
「……もう一度聞く」
低く、感情の抜け落ちた声。
「娘はどこだ」
答えはない。 爺ちゃんは歯を食いしばり、地面に手をついて立ち上がる。
膝は笑っている。
それでも、前に出る。
ご神木の影―― 薬売りは隠れるように、様子を伺っていた。
「……何やってんだ、あいつ……」
喉が鳴る。 知らない。 こんな男、知らない。 この場にいていい人間じゃない。
次の瞬間、男が動いた。
爺ちゃんは咄嗟に身を躱し、同時に手捌きが走る――
が、男は見切ったかのように、動作の裏を取る。
刹那、衝撃。
爺ちゃんの身体が宙を舞い、ご神木へと叩きつけられる。
その瞬間、乾いた音がした。
古い木肌に打ち込まれていた五寸釘が、肩口を掻き裂く。
赤が噴き出した。
思ったよりも、ずっと多く。
幹を伝い、土に落ち、静寂の匂いを変えていく。
薬売りは一歩下がり、頭を振った。
(俺じゃない) (俺じゃない、俺じゃない)
足が竦む。 見ているだけだ。 何もしていない。 それでも、目を逸らせなかった。
同じとき、闇の奥。
ゆき姉は、ひたすらに身を縮めていた。
音は、遠い。 何かの衝撃だけが、不定期に届く。
不安。
どうしようもない、恐怖。
「お母さん……」
笄を、手に握りしめ、祈る。
やがて、胸の奥を撫でるような、かすかな流れ。
空気が、変わった気がした。
湿りを含んだ、温いものが、外の光から漂ってくる。
鼻を刺すほどではない。 けれど、確かに――
知っている匂い。
昔、雪の中で何度も嗅いだ。 安心と叱咤と――
背中の大きさを思い出す匂い。
「……いや……」
声にならない。
それが何かを理解する前に、身体が動いていた。
震えたまま、闇を抜ける。
爺ちゃんが、そこにいた。
ご神木の根元に崩れ、血に濡れている。
「……お爺……ちゃん……」
駆け寄ると、爺ちゃんが目を微かに開けた。
その視線が、ゆき姉を捉える。
「……来てしまった、か」
声は、もう細い。
「逃げろ、雪音」
それから、少し間があった。 息を整えるように、何かを探すように。
「……すまなかったな」
力ない指先が、ゆき姉の頬をなぞる。
「お前に……何もしてやれなかった」
言葉が、震えた。
「守ることさえも……できん親で……」
それ以上は、続かなかった。
力が抜け、ご神木に凭れたまま、動かなくなる。
ゆき姉は、その場に座り込んだ。 泣くことも、叫ぶこともできない。
ただ、虚ろなままで、目を見開いていた。
疵の男の、影が覆う。
見上げるその目を、闇の奥から、刺すように見据える眼差し。
ゆき姉の―― 怯え切っている、その瞳の奥。
人ならぬ、冷たい光。
感情が先んじるゆえの、隠しきれぬ"違い"。
男の口元が、わずかに歪む。
「……やはり」
低く、確信を帯びた声。
「あの時と、同じ目――」
刃を低く、切っ先を向けて構える。
「悪く思うな」
踏み込み、一直線に突く。
刹那。
その軌道に、影が割り込んだ。
はる坊が、ゆき姉を抱き込む。
刃は、その背中から―― はる坊の身体を、真っすぐに貫いた。
――第四十五夜・了
