雪月花 第五夜 雪解初
「……帰れませんでした」
言葉にすると、やけに間が抜けた。
女将は何も言わず、ほのかに微笑んだ。 湯猫はいつもの調子で尻尾を揺らしている。
「ま、仕方ないですニャ」
軽く言うが、それで済む話だろうか。
「寒かったでしょう」
女将が囲炉裏の方を示す。
中へ上がることを、咎める人はいなかった。 むしろ、促されている気がした。
「すいません……また、お邪魔します」
囲炉裏の炭は、静かに赤く起きていた。 手をかざすと、じんわりと熱が返ってくる。
思ったより、体が冷えていたらしい。
――助かった。
そう思ってしまった時点で、 もう負けだな、とも思う。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「……あの」
こちらから切り出す。
「もし、もう少しだけここに置いていただけるのなら……何か、手伝えることとか」
女将が首を傾げる。
「さすがに、何もしないわけにも」
湯猫が、にやりと笑った。
「別に、働いたら負けでもいいんですニャ~」 「いや、それは肩身が」
猫に飼われるなど、冗談じゃなかった。
「……ふ~む、そうですニャ~。じゃあお風呂掃除とか、どうですニャ?」 「待った!」
どこにいたのか、枕兎が割って入る。
「湯猫より、私のほうが助けた義理あるでしょ」
嫌な予感しかしない。
「客室の掃除。これしかないでしょ」 「おっと、それなら」
酒猿も加わった。
「厨房の掃除をお願いしやすよ。あっしの料理、美味かったでしょ?」
みんな、そんなに掃除が嫌なのか。
「……全部やりますよ」
三匹が顔を見合わせる。
「全部!?」
声が重なった。
そのくらいしか、役に立てそうもない。
女将はその様子を、どこか遠い笑顔で見つめていた。
身体の冷えが収まってきた頃。
「じゃ、まずは案内しますニャ」
湯猫が立ち上がる。
猫を先頭に、みんなでぞろぞろと廊下を進む。
客間の前まで来ると、枕兎が口を開く。
「客間は全部で3つ。あと、バーとかもあるから」
湯殿の先の分かれ道で酒猿が一言。
「厨房は、この先を曲がった突き当りでさ」
どうやら思ったよりずっと広い。 さっき言ったことを、若干後悔し始める。
しばらくして、妙にチカチカする一角に出た。
並ぶ筐体。 ドットの荒い画面。 どこか懐かしい匂い。
「……ゲーム?」 「ですニャ」
浴衣でゲームは最高だから、とドヤ顔。
クレーンゲーム、格闘ゲーム、シューティング。 見たことはないのに、知っている気がする。
「前にいた旅館でも、よく入り浸ってましたニャ」
枕兎は筐体のボタンをぽちぽち押し、首を傾げる。
「……子供だよね」
その一言に、湯猫が突っかかる。
「子供とニャ!?」
そして、酒猿が乗っかる。
「お、いいねぇ。久々に勝負といくかい」
この際白黒はっきりさせよう、と。 気づけば、三匹はゲームコーナーへと吸い込まれていく。
――あれ。
声を挟む隙もないまま、 いつの間にか、勝負が始まっていた。
「……」 「……こちらへ」
声に振り向くと、女将の姿。 その後ろに、浅葱色の湯暖簾のかかる扉があった。
静かに扉を開ける。
雪に囲まれた湯船。 立ち上る湯けむり。 山を見下ろすように造られた、白い世界。
思わず、言葉を失う。
黄色い桶の積まれたその手前に、隠れるように脱衣所。 屋外だが木の温もりがあって、中にはストーブも焚かれている。
これは、贅沢な造りだ。
「……宿のことを知ってもらうなら、どうしても初めに見ておいてほしくて……」
……そう、だよな。
これほどの旅館なら、あるよなこんなところも。
これは、思ったより……
不意に、風に流れた湯けむりが、 女将の袖先に触れた。
――きらり。
細かな光が、空気に散る。
何だろう。
……綺麗だな。
そのとき。
はらり、と何かが落ちてきた。
手のひらで受け止める。
「……桜?」
こんな雪深い場所で、一体どこから。
ふと、女将を見る。
その視線が見上げる先。 雪の積もった老木が、春を待ち侘びているようだった。
胸の奥で、何かが動いた気がした。
止まっていた歯車が、 ほんの少し、音を立てたような。
雪は、まだ深い。
けれど。
どこかで、 時が、ほどけはじめていた。
――第五夜・了
