雪月花 第十七夜 迷子(後編)
あれから、追ってきた酒猿が見つけてくれたおかげで、どうにか宿に戻ってくることができた。
一体、何があったというのか。
女将は、一言も言葉を発しない。
穏やかな表情で眠っている守―― まずは、客間の布団にそっと寝かせる。
そのまま、無言の時間。
最初に沈黙を破ったのは、枕兎だった。
「何が……あったんですか?」
女将は、黙って目を伏せたまま。
空気だけが、静かに流れる。
しばらくして、ようやく重い口を開いた。
「私が……いけなかったんです」
溢れ出す、懺悔。
幼子を、預かるということ。
その意味を、忘れていたのだと。
親と離れた、子の気持ち。
不安。 夜。 帰る場所。
「私……」
でも。
女将は、守を見つけた。
守が一人、母を探して、迷子になって。
それでも、見つけた。
それだけで、どれほど安堵できたことだろう。
「お母ちゃん……」
守は、また母の夢を――
きっと夕べも、呼ばれたのだろう。
皆、無言のまま俯いていた。
「あの、もし……」
玄関から、声がする。
女将は、袖口で目元を拭うと、再び凛とした姿勢で玄関へ向かった。
「いらっしゃいませ」
客は、煤けた服の、だが穏やかそうな女性。
「あの……この近くで息子を……守を、見かけなかったでしょうか」
女将は、一瞬だけその名を胸の内で反芻する。
そして、静かに頷いた。
「……どうぞ、お上がりください」
女性は、脱いだ草鞋を丁寧に揃え、女将の後に続く。
襖を開ける。
そこには、穏やかな寝息を立てる守。
布団の中で、小さな胸が規則正しく上下している。
女性は、その場に崩れるように膝をついた。
声を殺し、何度も、何度も。
「……守」
名を呼ぶ声は、震えていた。
女将は、それ以上、何も言わない。
ただ、そこに立っていた。
女性は、守の頬にそっと触れる。
それだけで、堰を切ったように涙が落ちた。
「……ありがとうございます」
顔を上げぬまま、深く、深く頭を下げる。
「探しても、探しても……声が、聞こえなくて……」
女将は、ゆっくりと首を振った。
「会えて、何よりです」
それ以上の言葉は、どこにもなかった。
女性は、そっと手を伸ばす。
触れた指先に、確かな温もりを感じたように、深く息を吐いた。
「……本当に、ありがとうございます」
誰に向けた言葉かは、分からない。
女性は、守を起こさぬよう、慎重に、背に負うようにして。
その拍子に、守の腕が、眠ったまま、自然と母の肩へ回った。
まるで、そこが―― 帰る場所であるかのように。
女性は、一度だけ女将を見る。
確かめるように。
女将は、静かに頷いた。
玄関を出ると、夜気はもう冷たくはなかった。
一行は、無言のまま、坂の上に立つ。
女性は、振り返らない。
守は、眠ったまま。
坂を下りていく二人の背を、一同は最後まで見送っていた。
雪は、もう降っていない。
鈴の音も、聞こえない。
足跡も、残らなかった。
ただ、白い道だけが、静かに、続いていた。
――第十七夜・了
