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雪月花 第五十一夜 鬼の夜桜

あれから七日ほど。

はる坊はとうとう、沼に湧く湯と言われる奥地へと、無事辿り着いた。

道を尋ね迷い歩く道中、山を深く分け入るほどに、噂は濃くなっていった。


――鬼の夜桜。

そう呼ばれる化け物が棲んでいる、と。


村の住職の言葉が、ふと胸に浮かぶ。

生きて帰れるかどうか――


でも。

どうしても。

ゆき姉に、助けてもらった命だけど――


どうしても。


ごめん。

湯けむりに包まれる沼は、月明かりを受けてどこか妖しく、幽世の気配があった。

しん、と静まり返った水面のあちこちから、白い湯気が立ちのぼっている。

こんなところに棲む、化け物が――


ひやり、と。

思わず背筋が凍る。


とにかく今夜は、この近くにあった古い廃寺に間借りすることにした。

鬼の夜桜は、明日改めて探す。

近くの宿か湯守を訪ねれば、何か聞けるかもしれない。


薄暗い、埃にまみれた堂内。

月明かりだけを頼りに、適当な塒を探す。


――ふと。


足。


人の足。


「う……」

あまりの衝撃に、思わず腰を抜かした。

どたん!と、派手な音が堂内に響く。


「……む、何じゃ?」


その足が、むくりと身体を起こした。

月明かりに照らし出されたのは――

女だった。


長い髪が、肩からさらりと落ちる。

まだ寝ぼけているのか、片手で目元をこすりながら、ゆっくりこちらを見る。


「なんじゃ、獣ではなかったか」


落ち着いた声だった。

はる坊は、まだ尻餅をついたまま固まっている。


「お前さんか、今の騒々しい音は……」

女は周囲を見回し、そしてはる坊を見て――

くすりと笑った。


女は胡坐をかき直し、片膝に肘を乗せた。


「何ぞこんな夜更けに、たった一人でこんな山奥の寺に来るとは……」


少しだけ身を乗り出し、頬杖のままこちらを覗き込む。


「……ふうん?」


「ワケアリ、か?」


月明かりが、女の横顔を白く照らす。

若い。

こんなあばら家に、不釣り合いなほど。


「いや……」

はる坊は言葉を探すように、視線をさまよわせた。

「ただ今夜は……ここで泊まらせてもらおうと……」


女はしばらく黙って、はる坊の顔を眺めていた。

やがて、ゆっくり口元が歪む。


「ほう」


その声は、どこか楽しんでいるようでもあった。


「金が、ないのか?」


一瞬、はる坊は言葉に詰まる。

問いの調子が軽いのに、目だけが笑っていない。


「え、ええ……まあ……」


女は、にやりと笑った。


「……欲しいか?」


一拍。


「金」


はる坊は思わず一歩、後ずさる。

「え、いや……」

言葉がうまく出てこない。


女はその様子を、じっと見ていたが――

ふっと息を吐いた。


「……冗談じゃ冗談」


くつくつと肩を揺らす。


「何じゃ初心じゃのう、お前さまは」 「よくそのようなナリで、こんなところまで来たものじゃ」


けらけらと笑い飛ばす女。

はる坊は、むすっとした顔のまま黙り込むしかない。


しばらくして、女はふっと笑みを収めた。


「……まあ、とはいえ」


声が、少しだけ低くなる。


「本当に欲しいのなら」


女は、ゆっくり掌を上に向けた。


じゃらり。


まるで手品のように、金が掌からこぼれ落ちた。


はる坊は、ただ目を見張る。


女は金を指先で弄びながら、ちらりと見上げる。


「どうじゃ」


少しだけ首を傾げる。


「欲しいか?」


はる坊は、少し困ったように首を振った。


「なんか……受け取れません」


一瞬だけ、女の表情が消える。


それから、ふんっと鼻で笑った。


「そうか」


「良い心がけじゃな」


掌の金は、いつの間にか消えている。


「では遠慮せず、ここで眠るがよいぞ」


「え」


「え、ではない」

女は肩をすくめる。


「今、お前が選んだのであろう」


「え、選ぶ?」


女は少しだけ眉をひそめた。


「……ところで、お前」


「……はい」


女は顎に指を当て、じろじろとはる坊を眺める。


「わしはいくつに見える?」


「……いくつ?」


はる坊は戸惑ったように瞬きをする。

しばらく考え――


「ひとつ?」


「そうではない、歳じゃ歳!」


「女に言わせるものではないぞ、それは」


「……うーん」

はる坊は首を傾げる。


「俺と同い年くらい、ですか?」


女は一瞬、黙った。

それから、ゆっくり頷く。


「……そうか」


「なるほどなるほど」


何かを納得したように、小さく笑う。


「……まあ、とにかく」


女は軽く手を振る。


「今宵はここで眠るもよし」 「他へ行くも、止めはせんが」


はる坊は、また少したじろぐ。


「……だって」


「絶対、何か変なことしてくるでしょ?」


女は一瞬ぽかんとする。


それから――


「お前が言うかそれを!」


膝を叩いて笑い出す。


「ははっ、これは傑作じゃ」 「疑い深いのう」


しばらく笑っていたが、やがて息を整え、


「まあ、よい」


と手をひらひら振った。


「約束しよう」 「何もせんと」


「……嘘くさ」


どうしても疑いが晴れない。


が、仕方ない。


はる坊は、ふと気になったように言う。


「……ところで」


「さっきは急に金を出して見せたり」


「ん?」


「あなたは、一体……?」


女は少しだけ首を傾げる。


「おう、わしか?」


口元がゆるむ。


「わしは――」


一拍。


「鬼の夜桜じゃ」


――第五十一夜・了

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