雪月花 第七十二夜 絆
目が覚めると、ボロボロの天井が見える。
「……生きてますかニャ?」
猫が、覗き込む。
ちょっと動くとすぐに、頭が割れるほど痛む。
「……はいこれ」
兎が、待ち構えていたように頭痛薬をくれる。
ありがたい。
すぐさま、二錠ほど服用。
あれだけ血を流したように感じたのに、身体には傷一つなかった。
やっぱりここは、現実じゃないのかもしれない。
しかしだからと言って、あれは……
夢や幻覚で片づけるには、あまりにも……
あれが、人ならぬ、妖の――
とりあえず、落ち着く。
一旦、息を整える。
宿の様子は、かなり壊れたままだが、静かだった。
「……女将さんは?」
その問いに、無言で目をやる一同。
その先に、幽花に看病される女将の姿。
「私のせいだって、幽花さんが……」
違う。
本当に悪いのは――
「あ……」
女将がやっと、薄っすらと目を覚ます。
「女将さん!」
返事はない。
しばらく、虚ろに天井を見上げるだけ。
やがて、目だけがこちらを見る。
「……」
無言。
思わず、言葉に詰まる。
「……ごめんなさい、女将さん」 「俺のせいだった」 「どうか、赦してほしい」
両ひざで拳を握り、涙を堪えるので精いっぱいだった。
「……いいんです、もう、大丈夫ですから」
消え入りそうな声。
どこか、諦めにも似た。
「……それより、すみませんでした……」 「あんなことに……なってしまうなんて」
虚ろな眼差しのまま、うわごとのように言葉が漏れる。
「お怪我は……」
そしてこんな時まで、皆を気遣う。
「大丈夫、皆さん、無事ですよ」
幽花が、優しく女将の手を握って言う。
そんな女将の顔を、子供も、不思議そうに覗き込む。
「……よかった」
安堵し、再び眠りにつく女将。
どうしようもない無力感だけが、棘のように刺さっていた。
その後、客間の布団を運び、そっと寝かせる。
夕方。
皆で見守る中。
ふと、目を覚ます女将。
「……この匂い」
枕元には、鍋と椀が置かれていた。
湯気の立つ、温泉お粥。
「これ……」 「……幽花さんからでさ」
猿。
「あっしがお教えしまして」
どこか照れくさそうに笑いながら。
「その……気持ち、だそうで」 「……勝手に、すみません」
幽花が、少しだけ視線を落とす。
「温かいうちに……」
それだけ。
目の前の椀を、しばらく見つめる。
――食べて、いいのか。
一瞬だけ、迷う。
けれど。
一口。
「……」 「……美味しい」
女将が作る物とは、違う。
でも――
知っている。
懐かしい風。
喉が、詰まる。
息を、吸う。
もう一口。
視界が、滲む。
溢れる。
すべてが――
重なるように。
ごめんなさい。
――ごめんなさい。
止めようとしても――
もう、止められなかった。
翌朝。
雪は、静かに止んでいた。
支度を整え、玄関に立つ幽花と子供。
「それじゃあ……お世話になりました」
深く、頭を下げる。
「いえ……こちらこそ」
言葉が、うまく続かない。
子供が、ふとこちらを見る。
何か言いたげに。
けれど結局、何も言わず――
幽花の手を、握り直した。
「……あの」
思わず、声が出る。
振り返る、幽花。
「……その子」
言葉を選ぶように。
「……あのときの……」 「……吹雪の中でずっと、お母さんを呼んでた……」
視線を落とす。
「……ええ」
静かに、頷く。
少しの間。
「この子は……」
子供の頭に、そっと手を置く。
「主人と二人で引き取った、孤児です」 「……」 「ずっと、本当の母親のことばかり呼んでいて」 「私のことは……最後まで、母とは呼んでくれませんでした」
目を伏せる。
「だから――」
ほんの少しだけ、笑って。
「せめて、最後くらいは」 「この子が呼んでいた場所へ、連れていってあげたくて」
言葉は、そこで終わる。
風が、吹く。
「……そう、ですか」
黙って、俯く。
「……その」
少し、ためらってから。
「……ご主人は」
幽花は、少しだけ目を細める。
「今は……遠くに」
それだけ、静かに。
「……そう、なんですか」 「ええ」
間。
「でも、一緒にいることだけが……すべてじゃない、と」 「……あの人に、教えてもらいました」 「何度も」
ふっと、やわらかく笑う。
「離れていても……」 「ちゃんと、繋がっていられるものなんですよ」
その言葉は、どこか、確かなもののように。
「……だから」
少しだけ、言葉を探すように。
「きっともう、大丈夫……」
春風のように、微笑む。
「……どうか」
ほんのわずかに、視線を落として。
「自分を大切に……してあげてください」
やわらかく。
それだけを残して、幽花は背を向ける。
子供の手を引いて。
雪道へと、歩いていく。
呼び止めることは、もうできなかった。
ただ、その背中を――
見送ることしか。
……ごめんなさい。
……ありがとう。
……逢わせてくれて。
……ありがとう。
……私の――
憧れの人。
――第七十二夜・了
