雪月花 第七十三夜 あぶたま
深淵。
黒に鋭く、紅い三日月が張り付く異界。
「鬼、か……」 「厄介なものが、目覚めよったの……」
深紅に光る目が、呟いた。
あれから、宿は少しずつ元の姿を取り戻していく。
そこかしこに生々しい傷跡を残しながら。
それでも客は、わけも聞かずにただ、皆思い思いに癒されては還っていく。
女将とは、あれから特に変わったこともなく。
これまでと変わらず、屋根の雪を下ろし、掃除をし、淡々と手伝うだけ。
でも……
この日々は、一体どこに向かって……
そんな、ある朝。
玄関先の雪かきをしていると。
ふと、狐が一匹。
白雪の中に溶けるような、白銀の毛並みをなびかせ、颯爽と宿の中に入っていく。
「あ、ちょ……」
慌てて後を追う。
が、玄関を入ったところで、その姿はすでに見当たらなかった。
「……何だ、今の」
やがて、猿に呼ばれて遅めのまなかいランチへ。
今日は、あぶたまという料理だそうだ。
おあげとたまごをメインに、きのこや山菜を出汁で煮てほろほろにしたものを、白米の上に乗せたもの。
ほのかな醤油の焦げ香と、たまごの半熟具合が調和した、見事な一品。
添えられた三つ葉の香りが、鼻をくすぐる。
美味だ、相変わらず。
しかし……
良いのだろうか、こんなものばかり毎日……
ふと、気づく。
見知らぬ人影が、厨房のすみでこちらをじっと見ていた。
着物とも装束ともつかぬ黒い衣を身に纏い、白銀の長髪をなびかせた――
少女?
おもむろに、テーブルの上にひょいと飛び乗ると、どっかりと胡坐をかく。
「早よせい、わらわの分も」
何、一体?
箸を進めながら、思わず横目で見てしまう。
奥にいた猿が、その姿にようやく気付く。
「……ん?」 「何です、この娘?」 「……さあ」
首を傾げる。
「いいから早よ、その……あぶたまとやらを!」
その言葉に。
「お、食ってくださるんですかい?」
猿は躊躇う様子も見せず、見ず知らずの少女にも颯爽とあぶたまを差し出す。
「どうぞ、熱いうちに!」
受け取ると少女は、まるで飢えた獣のように、あぶたまにがっつく。
「う……」
う?
「……美味ぁい!……こんな美味いものが!」
やけに感動している様子。
まあ……美味いけど、泣くほどだろうか。
横の猿はというと、鬼の首でも取ったかのようにキラキラと輝いていた。
まあ、そうだろうなと。
後から、兎の姿。
「……誰?」
横目で一瞥しながら。
「ふがふふ……ふがが」
少女が何か言ってるが、頬張ったままでまったく聞き取れない。
兎は何事もないかのように黙って席に着き、あぶたまを食べ始めた。
食後。
「……で、誰?」
兎が切りだす。
「……わからんのか?」 「さあ?」
一同。
「そうかそうか、なればこのまま退散するとしよう、馳走になった」
堂々と出ていこうとする少女。
「え、何それ!?」
その瞬間ふと、玄関で見かけた白銀の狐を思い出す。
「そういえばさっき……」 「雪掻きしてるときに、玄関から銀色の狐が入っていくのを……」 「狐?」
ぴたり、と少女の足が止まる。
「何じゃ、見られておったのか……」
小さく、ため息。
「……まあよい。こうなってしまっては、隠す意味もあるまい」
「ほれ、これでわからんか?」
ピンと立った狐の耳。
そして――
背後から、ふわりと広がる銀色の九本の尾。
「……?」
一瞬、よくわからない。
だが、猿と兎は即座に反応する。
「え?」 「それって……」
にやり、と得意げに笑う少女。
「玉藻……」
声が揃う。
玉藻。
つまり、九尾狐。
確か、このあたりでは有名な伝説のある……
「いや、わらわとしたことが不覚じゃった」
肩をすくめる。
「姿を明かさず、穏便に済ませるつもりじゃったのに」
「まさか、このような匂いに釣られるとはの……」
顔を見合わせる一同。
九尾が、目を細める。
「この中に、厄介なものが紛れておろう」
ふ、と。
視線が、こちらに止まる。
「……」
空気が、変わる。
一瞬。
呼吸に合わせて――
肌の色が、わずかに沈む。
影が、遅れて動く。
(……?)
……気のせいか。
「……なるほどの」
九尾が、静かに息を吐く。
「壊れておらぬ……わけではない」
一歩、近づく。
「壊れるのを、"押し留めておる"だけじゃな」
沈黙。
「鬼を宿しておきながら、よくもそれだけ耐えておる」
「じゃが――それも時間の問題よ」
視線が、突き刺さる。
「いずれ弾ける」
「そのときは、この宿どころか――」
「この地ごと、呑むぞ」
「……だからじゃ」
一拍。
「帰れ」
「お前はまだ、"人でいられる側"じゃ」
――第七十三夜・了
