雪月花 第十四夜 寄り道(後編)
「ううー」
朝食の膳を前に、客は何やらあまり乗り気でない。
夕食は、あんなにきれいに平らげていたのに。
「でもお粥……ありがたいわあ~……」
独り言のように、ぶつぶつ言っている。
朝食は、いつもの温泉お粥。
今朝は、温泉たまごに海苔の佃煮、なめこと大根おろしの小鉢。
どこか、いたわりを感じる膳だった。
「まさかさ……」
隣に、枕兎が姿を現す。
「あんなにお酒が弱かったなんて」 「お酒?」 「実は、夕べね……」
どうやら客は夕食の後、バー耳枕に姿を見せたらしい。
一目でその雰囲気にほれ込んだ客。
例の調子でのベタ褒めに、気をよくした枕兎。
マティーニを一杯、おごりと言って差し出した。
見た目の美しさに吸い込まれるように、客は上機嫌に、スイスイと飲み干した。
――酒だとも知らずに。
そうしてあっという間に酔いつぶれた客を、どうにか客室まで運んで、布団に寝かせたのだそうだ。
「それは……お疲れ様でした」 「……それとね」
枕兎が続ける。
「どこかで……見た覚えがあるんだって」 「……何を?」 「あなたの顔」 「……え?」
一瞬、空気が固まる。
「……知り合い?」 「いや、全然」 「……だよね」
他愛もなく、そんな話をしているうち。
「いや美味しかったわあ~!ご馳走様でした!」
何だかんだ、客はすっかり朝食を平らげていた。 それに、声にも張りがある。
……あのお粥は、やはり効くようだ。
「おかげですっかり元気になったし、朝もお湯、いただいちゃおうかしら!」
完全に、昨日の調子を取り戻しているようだった。
朝湯から上がり支度を調えた客は、ロビーへ。
「何だかすっかりお世話になっちゃって、突然押し掛けたのに、ほんとにありがとね!」 「いえ、こちらこそありがとうございました」 「いい思い出になったわあ~」 「そう言っていただけると」
揃えておいた下足を履くと、客は揚々と出立していく。
女将ともども、玄関前まで見送りに出た。
ふと振り返り、こちらをじっと見る。
「ねえ、あなた」 「……はい」 「前にどこかで、会ったことないかしら?」 「……いえ、すみませんが」 「……うーん、そうよねえ。人違いかしらね」
からからと笑うと、手をひらひらさせながら、軽い足取りで、坂を下りて行った。
まるで、おつかいの寄り道でもしていたかのように。
「そういえばあの人……温泉の匂いも、懐かしがってた」
横で、枕兎がぽつり。
坂の途中で、足跡が消える。
見送る女将の眼差しが、どこか寂しげに見えた。
……気のせいだろうか。
そういえば、あの客――
旅姿じゃ、なかったな。
――第十四夜・了
