雪月花 第三十五夜 名物
鍋の中で、米がほどけるように揺れていた。
白く濁った湯が、静かに呼吸するみたいに、ふつり、ふつりと泡を立てている。
「……できてる、かな」
はる坊が、鍋から目を離さずに言う。
隣で覗き込んでいたゆき姉は、すぐには答えず、しばらく様子を見てから、小さく頷いた。
「……うん。今度のは、たぶん」
匙を入れる。 底に引っかかる感触はなく、米はすっと割れた。
塩は、ほんの少し。 それでも、口に含むと、湯の奥から米の甘みが追いかけてくる。
「……」
はる坊が、もう一口。
「……これだね」
ゆき姉は、返事の代わりに、同じように匙を運んだ。
「……うん」
二人で顔を見合わせ、言葉を探すのをやめた。
しばらくして、ようやく息を吐く。
「ねえ」 「なに?」 「姐さんにも、食べてもらおうよ」
一瞬の間。
「……うん」
それで、決まりだった。
程なくして、ゆき姉が姐さんを連れて戻ってくる。
戸口に立った瞬間、姐さんが、小さく鼻を鳴らした。
「あら」
視線が、鍋に向く。
「……いい匂いね」 「すいません。どうしても、感想を聞きたくて」
椀に盛り、差し出す。
「これ、お粥?」 「はい。……温泉で、炊いてみました」
一瞬、眉が上がる。
「……え?」
匙を取る。
ひと口。
そのまま、何も言わずに、もうひと口。
姐さんは、椀の中をしばらく見つめてから、ようやく顔を上げた。
「……なるほど」
それだけ言って、また口に運ぶ。
「……」 「……」 「……へぇ」
短く息を吐き、小さく笑う。
「……こんなふうになるのね」 「凄いわ、これ」
はる坊とゆき姉が、そっと肩の力を抜く。
姐さんは匙を置き、二人を見て言った。
「これは……」
少し考えてから、
「みんなにも、食べてもらいましょう」 「……え?」
姐さんは、当然のことのように続ける。
「だってお料理は、みんなでいただく方が美味しいじゃない?」
夜。
板場には、仲居や番頭が、いつの間にか集まっていた。
「何やら、面白いものができたそうだね」 「温泉で炊いたお粥、だとか?」
鍋の蓋を取る。
湯気が立ち、それだけで、場の空気が少し変わる。
椀を配り、受け取った者から、静かに口をつける。
「……」 「……」 「……ああ」
誰かが、小さく声を漏らす。
「……不思議だな」 「尖った感じが、ない」 「湯の匂いのいいところだけが、ちゃんと残ってる」
言葉は少ないが、匙は止まらない。
「これは……」
宿の主人が、椀を置く。
「女将にも、一度、味を見てもらおう」
ほどなく、女将が現れる。
一口。
何も言わず、目を伏せたまま、ゆっくりと噛みしめる。
しばらくして、小さく頷いた。
「……ええ」
顔を上げ、板場を見回す。
「お客さまにも、お出ししましょう」
それだけで、十分だった。
空気が、一段、和らぐ。
その様子を見て、ゆき姉が、そっと目元を押さえる。
はる坊が、何も言わずに、肩に手を置いた。
少し離れたところで、姐さんが、それを見て、静かに頷く。
鍋の湯気が、天井へと、ゆっくり消えていった。
日が変わった、昼下がり。 辻。
午後の影が、少し、長くなっている。
「……昨日より、湯のあとが、重くてね」
そんな声が、ひとつ。
薬売りは、すぐには、答えない。
「そういう日は、あります」
穏やかに。
「無理に、何かを足す話では、ありません」
包みには、触れない。
「むしろ――」
一拍。
「引いた方が、よい時もある」
客は、眉をひそめる。
「引く……?」 「ええ」
薬売りは、辻の先、湯宿のある方を、見やる。
「湯は、人を癒しますが、時に――呼びます」 「弱っている時ほど、響きやすい」
客は、黙る。
「少しのあいだ、湯から、距離を置いてみるのも、一つです」 「代わりに――」
懐から、薄い紙包みを、ひとつ。
「これは、飲むものではありません」 「持って、休むためのものです」
渡さない。
だが、しまいもしない。
「……どうします?」
選ばせるようで、選択肢は、多くなかった。
客は、視線を落とし、やがて、頷く。
「……言われた通りに、してみます」
薬売りは、微かに、口元をゆるめる。
「それが、一番、無難でしょう」
包みは、一つだけ、客の懐へ。
そのやり取りを、遠巻きに、別の客が、見ている。
「……昨日、あの人にも、似たことを、言ってたな」
小さな、違和感。
誰も、声には、しない。
少し離れた、軒下。
腕を組み、目を閉じている、疵の男。
辻は、今日も、静かだった。
――第三十五夜・了
