雪月花 第五十二夜 竜宮
翌朝。
「……うーん」
壊れた屋根から漏れる朝日に照らされ、はる坊はゆっくり目を覚ます。
そのとき――
肩から雑に着物を引っかけた半裸姿の夜桜が、ぬっと姿を現した。
「うわ!」
跳ね起き、後ずさるはる坊。
「おう、起きたか」
夜桜は気にも留めず、濡れた長髪を掻き上げる。
「お前もどうじゃ?」 「朝風呂は気持ちがよいぞ」
朝湯の香りが、ふわりと漂う。
はる坊の顔が、みるみる不機嫌になる。
「というより」
夜桜は鼻を鳴らす。
「お前、ちと臭うぞ」
「えっ」
はる坊は慌てて自分の身体を嗅ぐ。
「はは」
夜桜が喉の奥で笑う。
「いちいち可愛いやつじゃ」
外。
昨夜は暗くてわからなかった景色が、朝の光の中に広がっていた。
見事に晴れ渡る空。
新緑を渡る風が、目の前に沸く濁り湯の湯気を運ぶ。
遠くには、広大な沼。
鏡のような水面に、透き通る空が映り込んでいる。
はる坊は、しばらく言葉を失った。
「こんなところが……あったなんて」
夜桜は、満足そうに目を細める。
「なかなかいいところじゃろ」
二人はしばらく、風に吹かれていた。
やがて、はる坊が口を開く。
「……ここは」
「何という場所なんです?」
夜桜は、遠くの沼を顎で示す。
「……竜宮じゃ」
少し間を置き、
肩をすくめた。
「まあ、人の言葉で言えばの」
竜宮。
聞いたことのない名だった。
村から出たことのないはる坊には、それはまるで異国――
いや、
異界のようにさえ思えた。
「まあ、とにかく」
夜桜が手を振る。
「ひと風呂浴びてこい」
「話はそれから聞くとしよう」
湯あがり。
夜桜に借りた手ぬぐいで、濡れた髪を拭きながら。
夜桜が口を開く。
「して、噂を頼って来たと言うておったが」
「お前さまは、この鬼の夜桜に何用なのじゃ?」
ぴたりと、はる坊の手が止まる。
目的は、ただ一つ。
「雪女を」
「探しています」
その言葉に、夜桜の表情がわずかに曇る。
「……雪女?」
「はい」
夜桜は少し考えるように視線を落とす。
「……それはまた」
「ずいぶんと厄介なものを追うておるのだな」
「……厄介?」
夜桜は湯気の向こうを見たまま言う。
「雪女というのはな」
「追えるものではない」
「……」
「やつは」
「境界に棲む」
静かな声だった。
「たとえ妖の力をもってしても」
「そう易く見つかるものではない」
はる坊の肩が、わずかに落ちる。
「……そう、なんですか」
夜桜は続ける。
「吹雪に紛れて」
「時折、こちらに迷い出ることはある」
「だが」
「吹雪が止めば、また消える」
「境界へ」
沈黙。
はる坊は俯く。
「……しかし」
夜桜がぽつりと言う。
はる坊が顔を上げる。
「お前さまの態度によっては」
「あるいは」
「力になれぬこともない」
はる坊は思わず身を乗り出した。
「是非!」
「力を貸してください!」
夜桜は、ふっと息を吐く。
「では」
一拍。
「まず、付き合え」
「……え?」
夜桜は肩をすくめる。
「わしの退屈しのぎじゃ」
間。
はる坊がぽつりと言う。
「……そういえば」
「ん?」
「鬼の夜桜は」
「化け物って聞いてたのに」
夜桜が、ふいに上目遣いを向ける。
「わしは」
「化け物に見えんか?」
「……見えないです」
はる坊は、少し考えてから言った。
「人間です」
「どう見ても」
夜桜は一瞬だけ黙る。
それから、
少しだけ笑った。
「そうか」
「それは……」
「嬉しいの」
だがその笑みは、
どこか寂しそうでもあった。
「……それで」
はる坊が言う。
「退屈しのぎというのは」
夜桜は空を見上げる。
「そうじゃの」
「とりあえず……」
「朝餉にでもするか」
そのとき。
遠くの沼の水面が、
わずかに揺れた。
――第五十二夜・了
