雪月花 第七十四夜 岐路
「帰れって言われても……」
「どうやっても帰れなかった、じゃろ?」
「……」
短く、頷く。
「安心せい、わらわが帰してやる」 「鬼は再び眠らせ――」 「お前は、何事もなかったように元の生へと戻る」
淡々と、続く。
「心配するな」 「境界は、時の理の外」 「すべては、一夜の夢となるだけじゃ」 「何も変わりはせぬ」
一拍。
「迷う前へと戻り、お前はお前の未来へゆけばよい」 「人として」
……帰れる。
ようやく。
元の日々へ。
……なのに。
言葉が、出ない。
――帰れるなら、帰る。
そう思っていたはずだ。
ここに来てから、ずっと。
けれど。
「……」
うまく、頷けない。
胸の奥で、何かが引っかかる。
ただ――
あのとき。
「ただいま」と、言ってしまった。
あの瞬間の、ゆき姉の――
「……どうした」
「いや……」
首を振る。
でも、今は――
「……少し、考えます」
それしか、言えなかった。
九尾は、しばらくこちらを見ていたが。
「……ふむ」
小さく、息をつく。
「まあよい」 「わらわもしばしこの宿を借りるゆえ」 「心が決まったら、声をかけよ」
「……迷うことでもなかろうがの」
その声音は軽い。
だが、どこか試すようでもあった。
猿も、兎も、ただ黙る。
その静寂だけが、やけに重く残る。
夜。
今日は、客もいない。
就寝前に、一人湯へ向かう。
頭から熱い湯をかぶる。
顔をばしゃばしゃと、勢い任せに洗う。
迷いの原因は、鬼の目覚めのせいだろう。
鬼さえ眠ってしまえば、きっと何も――
湯に浸かり、頭まで潜る。
ぶくぶくと限界まで息を止め、ぶはっと息を吐く。
そんなことを、何度も繰り返す。
……心なしか、湯が熱い。
鬼が、抵抗しているのかもしれない。
そんな思いを巡らせるうち、やがて、目が回り出す。
間一髪、脱衣所。
扇風機の風に当たりながら、火照りを冷ます。
そこへ、猫がひょっこり姿を現した。
「おや、ここで会うのもお久しぶりですニャ」
いつもの調子だ。
「どうでしたニャ、湯加減は?」
「いつもながら、いいお湯でした」 「ちょっと考え事してて、のぼせちゃいましたけど」
猫は、ふっと笑い、茶色い瓶を差し出す。
「どうぞですニャ」
キンキンに冷えている。
ありがたい。
蓋を開ける。
小さく、弾ける音。
一口。
……?
もう一口。
「……あれ?」
「どうしましたニャ?」
現世でも、何度も飲んだ。
よく知っている、はずの味。
――の、はずなのに。
「これ……」
言葉が、続かない。
「こんな味でしたっけ」
猫は、わずかに目を細める。
「まあ、マイナーチェンジくらいは、よくあるんじゃないですかニャ」
軽く、そう言う。
だが。
何かが、違う。
思い出せない。
それでも、"違う"という感覚だけが残る。
――気付かなくてもよかったものに、触れてしまったような。
どこかに、何かを置いてきたような。
思い出せないまま、そこだけが欠けている。
……こんな先に、本当の未来なんて――
その感覚だけが、静かに、残った。
――第七十四夜・了
