雪月花 第七十七夜 虚空
空洞の化け物が、腕を叩き下ろす。
バーはカウンターごと弾け飛び、衝撃で棚の酒瓶が砕け散る。
枕兎の腕がガラス片に裂かれ、鮮血が跳ねた。
だが次の瞬間、鬼が懐へと入り込む。
肩口から往なし、化け物の身体ごと反転させて床に叩きつける。
腕を取り制圧に移るが、その腕は異様な角度で折れ、するりと抜け落ちた。
起き上がり、対峙する二つ。
「邪魔を……するな」 「……するに決まってんだろ」
鬼の肌が鉄色へと沈む。
髪は深紅に変じ、額には二本の漆黒の角。
赤い目が灯り、口元から焔の吐息が漏れ始める。
「……出よったか」
九尾が息を呑む。
再びぶつかる二つ。
衝撃が宿を軋ませ、空間そのものを歪めていく。
「このままでは……思ったより早く」
九尾は枕兎を庇いながら、状況を見据える。
そこへ、静かに女将が現れる。
「女将さん!」
枕兎の声。
「ここは、私の宿です」 「あの人だけに背負わせることはできない」
白い背が、静かに言った。
鬼が逆に踏み込み、歪な角度で腕を取る。
逃げられぬ形。
だがその腕が、じわりと焦げ始める。
次の瞬間、肉が膨れ上がり、暴力的に形を歪めた。
力の逆流。
拘束が弾ける。
一歩、二歩、後退。
その背後から、女将の指がそっと腕に触れる。
膨れた肉が、白い気にほどけるように沈み、元の形へ戻っていく。
「……これは」
九尾が呟く。
「こんなことが……」
女将は、空を見下ろした。
「……あの方は、誰かを追っています」 「え?」 「その記憶を、辿れれば……」
髪から笄を解く。
細い銀の線が、灯りを受けて揺れた。
「私が、線を戻します」
鬼は一度だけ頷く。
「……わかりました」
空洞が、虚空へと咆哮を上げる。
音というより、空白そのものの震え。
飛び掛かる空。
鬼は往なしにかかるが、その腕へ牙が突き立つ。
深く、穿つ。
その瞬間。
視界が割れる。
――音のない少女。
――何度も繰り返される転落。
――名も顔も曖昧なまま崩れていく輪郭。
――死の形だけが、ただ反復されていく。
それは記憶ではなく、残像。
積み重なった「終わり」のみ。
振り払う。
腕は毒に侵され、青紫へと沈む。
だが次の瞬間、焔がそれを焼き払い、色ごと消し去る。
再び牙。
鬼はその顎ごと掴み、力任せに床へ叩きつける。
そのまま動きを封じた。
「ぐ……ぁ……」
力が抜けていく。
形が崩れ、人へと戻る。
女将はその前に膝をつく。
「ごめんなさい」 「ここに縛ってしまったせいで……」
指が首元へ伸びる。
そこにある、わずかな窪み。
傷とも痕ともつかない線。
笄が、そこに触れる。
なぞる。
世界が一瞬だけ、静止した。
――ただ一つの方向へ進むこと。
――迷わなければ、それでよかったこと。
――痛みさえも、意味に変わると思っていたこと。
それでも。
残ったのは、ひとつの笑顔だけ。
あったはずの場所に、確かに。
そしてすべては、沈む。
――第七十七夜・了
