柳田國男という人を深く知る時間( ˘ω˘ )
お次のチェックポイントはこちら、柳田國男記念公苑。最初のチェックポイントの徳満寺でもボランティアの方にかなり濃密な解説をいただき、あの間引きの絵馬から衝撃を受けて今日に至るこの民俗学という学問を開いた最初の人物ということで、こちらではまたボランティアの方々にその人物像についてさらに深掘りして解説をもらえることとなり実に有意義な時間となりました( *´艸`)
ちなみにこちらは生家ということではなく幼少期に親戚の開業医を頼って居候させてもらっていた家ということだそうで、生まれ自体は兵庫県なのだそうです( ˘ω˘ )関西人やってん
今もって学生の合宿などにも使われるという母屋の裏手には、そんな柳田國男が神秘体験したと言われるご神体の珠が祀られる祠が。柳田の生家は開業医を何人も輩出しているという意味では名家なのですが、どうやらその割に裕福ではなかったそうなんですよね……それゆえに柳田少年もこの家に世話になることになったわけで、そういった流れの中でめきめきと才能が開花していく時分にあって、こういった体験もまたある意味での学びに繋がったと言えなくもないのかもしれません(*´-`*)
のちに間引きの絵馬から衝撃を受けたように、神懸かり的な感受性の持ち主であったことが伺えるエピソードとなっております。つまり一歩生まれる場所や時代が違ったなら、自分も間引きの憂き目に遭っていたかもしれないと……あの絵を見ただけでそんな風に時空を超えた捉え方ができる人物だったのですからねぇ(*´Д`)
とにかく柳田國男という人は11歳にして漢文だらけの書物を読破しまくっていたというあまりにも非凡な頭脳だったこともあって、預けられる先々で書物による知識を貪るように蓄えていったという少年期であったそうです( ゚口゚)=3こちとらいまだに日本語アヤシイのにだぜ
まあ後に帝国大学を卒業して官僚になって国を動かしながら、傍らで民俗学の礎となる実学研究を全国行脚しながら進めていったという、まあ言うなれば佐原の偉人伊能忠敬にも負けずとも劣らぬ超絶優秀な頭脳を持った天才であったことは間違いないようです。そんな彼の足跡にまつわる資料がこちらの土蔵に展示されているというのでちょいとお邪魔します( ゚ー゚)
青年期の恋文なんかも残っていたりしてわりとこう生々しい資料と言いますか、ほんとに人間味のあるワンシーンだらけの貴重なものがてんこもり。当時森鴎外や島崎藤村など著名な文学者との交流も盛んだったようで、文才もかなり評されていたとのこと♨
後に遠野物語などの小説も執筆しており、生前は文化勲章や旭日大綬章も受勲していたりと、その功績は近代日本史上に確かに刻まれておるのであります(*´ω`*)いわゆるひとつの偉人です
こちらが兵庫県福崎町に今も残っている柳田國男生家の模型。確かにご大家という感じではないようですが、やはりどことなく高尚な空気感の漂う風格があるような気がいたしますね(^-^)色眼鏡かもですが